過去の2日に1回日記(旧・お知らせ)保管庫(2010年10月〜12月)
旅立ちの夜に
あと30分ほどで23:30発三宮バスターミナル発松江駅前行き夜行バスに乗るため家を出ますので、あまり長い文章は書けないのですが…。
さっきざっと数えてみたのですが、おそらくこれで、人生百数十回目の旅行になるのかなと思います。ただ、何回経験しても、いくら年をとっても、旅行に出かける前の、ちょっと体が2〜3ミリ(一分程度?)浮きあがったような感覚というのは変わらないなあと、あらためて感じているのです。
さて、今回はどんな出会いが待っているのでしょうか。山陰の秋の風と大空と。今回も過去百数十回と同じく、楽しみにしています。(2010/10/1)
10/1〜3は松江・境港旅行のため、10/3の2日に1回日記はお休みでした。
みんなで作る手作り感(劇団Yプロジェクト「愛さずにはいられない」感想1)
ピッコロの同級生が照明を担当、ということで行ってきました、松江まで。行ってしまえば意外と近いんですけどね。旅行の話は後日まとめることにして、まずは演劇のお話。今回はスタッフワーク中心で。
会場の「松江市総合文化センター プラバホール(大ホール)」は客席数約800、舞台奥にどーんとパイプオルガンが鎮座している、明らかにクラッシック音楽での利用を前提に設計されたホールです。ここでどのように演劇をするのか、ということが、舞台技術学校生的には興味のありかでした。ということで、実際に行ったところ、まず眼を引いたのがどーんと立ち上がった舞台美術。裏面を使うことによって、主人公の家→教室→主人公の家と変化するもの。あのような書割パネルというのは、ありそうでなかなか見れないので新鮮でした。というのも、都会では大規模なセットを作る場所も、作るお金も、作る人や時間も、保管する場所もないためです。そのため、少ない置き道具やボックスで抽象的に表現することが多くなってしまいます。ああいう演劇の原点ともいえる舞台装置を作る能力・諸条件が備わっているというのは、地方で演劇をする人にとって大きなアドバンテージなのかもしれません。いっそのこと舞台転換を明転で見せて、主人公とヒロインの心象風景とオーバーラップさせる手法もあったのかなと思いました。
音響はホールの特性上どうしても残響が強いため、その調節が大変だったであろうと。PCCマイクで役者の声を硬めにしてから返していたようですが、やはり「お風呂の中でやっている演劇」風になってしまったところもあり。ただ、役者さんによって明らかに聞きやすい人とそうでない人の喋りがあるのは事実で、ホールや音響さんだけの問題ではなく、役者さんの問題なのかもしれません。
また、照明は後ろにホリゾント幕を吊ったり、美術パネルにダイレクトに明かりを当てることによって、分かりやすい照明変化を心掛けていたように思えます。ネタ入りのソースフォーも効果的でしたが、やはりベストは夕方の教室、教室に立った時の麗子先生。横顔が夕日に映えて、とっても綺麗でした。
スタッフ仕事は劇団外のプロにまかせっきりという劇団もよくあるようなのですが、このYプロは代表が照明家であることもあり、スタッフも自前で抱えているようです。そのあたりが役者からスタッフまで統一感のとれた、どこか暖かい作品世界を作り上げているのかなと思ったりもしたのでした。(2010/10/5)
甘美すぎる時間
単に季節がらなのか、あるいは年を取ってきたためか分かりませんが、どうも昨今の気温の変化についていけず、疲れがたまっています。次の3連休は今のところ予定なしなので、何とかそこまで頑張ろう…と思っていたのですが、今朝、色々なことも重なってついにダウン。急遽、午前中のお休みをいただきました。
しかしまあ、一生懸命勤労に励んでいる方には申し訳ないのですが、本来なら仕事に向かっている時間に部屋でのんびりパソコンを触ったり、テレビを見たり、もう一度お布団に入って2度寝したりするのは実に気持ち良いものです。「本当はこんなんじゃいけないよな」と思いつつ過ごす一種の背徳感が逆にその時間の甘美さを増しているのかもしれません。これが癖になったら本当にこの世界から抜け出せないかも、とちょっとだけ怖くなったのも事実です。
とはいえ、仕事に行ってしまえば、そんな甘美な時間のことはすっかり忘れて事務処理に追われているわけで、「職場」「仕事」という仕組みは良くも悪くも偉大なものだなあと、それも改めて感じたのでした。(2010/10/7)
関わらずにはいられない(劇団Yプロジェクト「愛さずにはいられない」感想2)
感想の続きですが、今回は役者・作品関係で。
まずは主人公のオッチャン。「もしかしたら若い子なのかな」とは思っていましたが、なんと19歳だそう。19歳で屈折した35歳の役とは、本当に大変だったと思います。ただ、若さをうまく愚直さに変えて、誠実な人物を演じるのに成功していたなと。演出家のアドバイスがあったのかもしれませんが、なかなかでした。
ヒロインの麗子先生は、多少心の動きが見えにくいところがあったものの、そもそもそういう役なので仕方ないのかもしれません。2時間半の中でどんどん綺麗になっていく姿は、もしかしたらお化粧とかをどんどんいじっているのかも知れませんが、とても印象的でした。ちなみに、「麗子メイク」をしていないご本人はとっても美人さんらしいです。是非見てみないといけません(笑)。
他にもお母さん、生徒さんたちと印象的な人は多かったのですが、個人的に好きだったのは、世話焼きの加賀工務店の社長さんと聖子ちゃんカットのぶりっこ・頼子ちゃん。それぞれ違った意味ですが、いずれも、このお話の時代背景である80年代を醸し出していました。ヤンキーの坂崎も、まあ、そうかもしれません。
80年代といえば、私が小学生から高校生のころ。あの時代は、今から見ると決して洗練はされておらず、社会の中にいろいろと無駄なことも多かった気がします。ただ、無駄と思われたことをどんどん切り捨てていったことによって、失っていったものも多いのかなと。たとえば、今、恋煩いで何日も休んだ従業員を解雇せずに迎えに来る社長なんていないし、その行方が気になって見に来る同級生なんていうのもいません。逆にプライバシーや個人情報保護の観点から訴えられてしまいそうです。一方で、結婚詐欺にあっても、それが周囲の人に知れ渡ったり、それで地元にいられなくなるなんてこともあまりない気も。良い意味でも、悪い意味でも人間関係が希薄になっているのです。
そんななか、舞台上では、人間に関わらずにはいられない、濃厚で暖かい人間関係が流れていました。そして、それは舞台上だけではなくて、劇団の中であったり、あるいは会場にいる観客の中や、街全体にも流れているのではないか。観劇を続けているうちに、そんなことを感じたのです。最後のシーンに感動できたのも、話の筋や演技が良かったということもさることながら、そこに関わっている人々のつながりの暖かさが直接伝わってきたからのような気がします。
この話はもともとジェームス三木さんが書いた川崎の定時制高校のお話。時期も80年代ですから、決して現代の松江ではありません。しかし、そこに流れるものの共通点に気付いてこのお話を選び、組み立てていった気がするのです。地域演劇というのは、地域の伝承をもとにしたエピソードを入れることでも、地域の伝統芸能を出すことでもありません。地域と地域の人々とに関わり、地域から愛されずにはいられない演劇を今後とも作っていってほしいと、初観劇ながら強く感じたのでした。(2010/10/9)
「宝塚」という壁を越えて (宝塚星組「愛と青春の旅だち」他感想)
3日連続で家に籠りっきりも良くないな…と思い、行ってしまいました、星組公演。これで4回目の宝塚歌劇になります。今回は日本物のショーと映画原作のミュージカルの2本立て。ミュージカルは前回ちょっと懲りていたので、どちらかといえば初体験の日本物のショーの方を楽しみにしておりました。
で、観た感想ですが、どっちもあまり宝塚っぽくはないけど、予備知識がなくても掛け値なしに楽しめる意欲作でした。日本物のショーの方は、特に波の詩(おけさ幻想)が、セット・ダンス・音楽・照明ともに秀逸。プログラムによると「日舞とバレエを融合したような」シーンで「21世紀の宝塚日本レビューを目指した」とのこと。私は20世紀の宝塚日本レビューを知らないのですが、全く古臭さは感じなかった、むしろ斬新さすら感じたステージであったとは明らかに言えます。
ミュージカル「愛と青春の旅だち」は、有名な映画が原作。舞台はベトナム戦争後のアメリカ。士官候補生と町娘の恋愛物語ですが、むしろ主人公の士官候補生ザックとそれを取り巻く同級生たちの成長物語として描かれていました。宝塚らしくないというのは、例えば、質素な服装や星条旗をモチーフとした額縁。ギャグや笑えるところがたくさんある演技や脚本。ロック調の音楽や多彩な効果音。最後のシーンすら、全員が士官学校の白い制服で出てきて、恒例の羽根も出てきません(シャンシャンは持っていますが)。ただ、それらが全てぴったりと当てはまって、非常に魅力的な舞台を作り上げていました。
あのメイクと様式美に隠れてしまいますが、良く考えてみると、出演者の彼女たちはみな20代から30代の女の子たち。芸能に生きているという点で多少特殊ではありますが、多分、実態は元気いっぱい悩みいっぱいの現代っ子。音楽学校という場で厳しい訓練を積み、いろんな成功や挫折の体験もしてきたはずです。今回の作品はその経験や友情、そして元気さや活力をうまく舞台に表現したなと。そういう意味では宝塚らしくないけど宝塚ならではの舞台とも言えるし、しっかり感動させていただきました。もちろん、夢咲ねねちゃんにはこういう元気な役はとってもはまっているわけで、そこも高ポイントの理由ではあります(笑)。
宝塚には多少、食傷気味だったのですが、またファンになってしまいました。結局これからも通ってしまうんだろうなと、ちょっとだけ覚悟してます。(2010/10/11)
10/13-14は富山に行っているため、更新はありません。ちなみに、富山県富山市は夢咲ねねちゃんの出身地です(笑)。
旅の夢から醒めた秋の夜更けに
13日・14日と富山県(立山)に行ってきました。あまりにも感じたこと、思ったこと、考えたことが多くて、更に戻ってきてからの仕事もバタバタで、自分の中で&ホームページ上でまとめるには、まだしばらく時間がかかりそうな気もしています。それだけ充実した、意味のある2日間だったのは間違いありません。
気が付けば、合同発表会まであと2週間。更に、台湾行きだの友人の公演の手伝いなど、プライベートの予定が目白押しな気も。一方で仕事もそろそろ秋の繁忙期に突入しつつあり、気力体力を立て直して乗り切らないといけないなあ、でも最近はなかなか心も体も無理が利かないしなあ、などと悩んでも仕方ない悩みが頭の中を駆け巡る秋の夜更けでありました。(2010/10/15)
一人で僕らは歩けるか(「智代アフター」感想1)
やってしまいました、智代アフター。ここで書いていたやつです。
ちゃんとした筋書きは知らずにやったのですが、各所で「あの結末はなかった」「鬱ゲー」との感想が散見されたことから、ある程度は覚悟して進んでいました。で、終わってみて、個人的にはとってもいい話だったなあと。涙が溢れてきてしまうほどの感動もなく、ゲームとしてのワクワク感にも若干欠けるものの、「そういうこともあるよね」とすごく共感できたのです。
とてもよかったのが音楽。特にEDの"Life is like a Melody(←音が出ます!)"は、本編の内容と相まって、聞けば聞くほどよい曲。「恋愛アドベンチャーゲーム」であるにもかかわらず、一人になって歩いていく希望と勇気をうたっています。
このあたりがマニアに不評だったのは良く分かるのですが、いよいよ40歳を目前にし、さまざまな出会いと別れを繰り返し、ある程度人生の方向性も見えてきつつあると、本当に一人で歩いていけるのか、あるいは一人で歩いていくことにどんな意味があるのかということを、割と真剣に考えてしまいます。子どものため、家族のためと、他人のために生きていくのは実は結構簡単なこと。ただ、それで本当にいいのか、その他人を失った時には人生の意味を失ってしまうのではないかと、つい考えてしまうのです。そんな悩みと思いに、作者の麻枝准氏は、かなり自分自身が迷いながらではありますが、一つのヒントを与えてくれた気がします。
ちなみに、麻枝氏と私は2歳差。大学で心理学を学んでいたということで、どこか感性に共通する部分があるのかもしれません。若い子たちには伝わらないかもしれないけど、彼の訴えたいことはどこか心に通じたのです。(2010/10/17)
それは今もきらきらと(「智代アフター」感想2)
僕が10数年前、つくばの市民演劇で得たものはたくさんありますが、その一つが「女の子のお母さん方がとっても魅力的だった」ということ。若いころプロで演劇をやっていたとか、音大に入って芸術家を目指していたとか、とにかく前歴がすごい人が多かったのです。ただ、今ここにいるというのは、様々な事情があるけれど、とにかくその道を進むことはあきらめたということ。ただ、その挫折は挫折として自分の中に大切に抱えた上で、また新たな夢を持って、奥さんをしたり、お母さんをしたりして、日常生活を送っている。そんな一人ひとりの人生を垣間見る機会が結構あったのです。演劇的人間関係ならではともいえますが、30代・40代の女性というのは「おばさん」「おかあさん」の括りにしか入っていなかった20代半ばの男子にとって、とっても意外で大切な発見でした。
今回の主人公である坂上智代は、違った意味ではありますが、波乱万丈の若いころを送ることになってしまいます。で、苦しんで苦しんで、苦しみ抜いて、最後は、その経験を自分のものとしていくのでしょう。苦しむことにどんな意味があるのかどうかは分からないけれど、その苦しんだ経験を抱えて、それをちゃんと消化or昇華して生きている人の人生というのは、外から見ていても魅力的ですし、自分の人生の楽しみ方を知っている気もします。そういう意味では、波乱万丈にならないハッピーエンドのストーリーにおいては彼女は堕落していきBADENDを迎える、というのは、作者のメッセージなのかもしれません。
私もそろそろ、あのお母さん方の年齢に近づいてきました。20代半ばの自分から見て魅力的な人物になることができているのか、魅力的な人生を送っているのか、ちょっと振り返ってみる必要があるかもしれません。(2010/10/19)
誰かの笑い声 みんなの笑い声
先日、昨年度の舞台技術学校の「卒業アルバム」を頂きました。これまで事務の方が撮影してくれていた授業風景や公演風景をCD−ROMに焼いてくださったのです。今年度の舞台技術学校も半分を過ぎつつあり、去年のことはかなり忘れかけていたのですが、改めて写真を見ると「こんなこともあったなあ」「彼は変わっていたなあ」などと、様々なことが思い出されます。それとともに、お互いどこかよそよそしく緊張していた1学期の授業から、卒業公演後の全員写真の笑顔に至るまでのみんなの表情の変化というのも、とってもいいなあと。自分もその当事者であったにも関わらず、何かすがすがしいものや若々しいものを感じずにはいられなかったのです。
今年は去年とは娑婆の(?)仕事内容が多少変わり、昨年度のようにきっちりと授業に参加できない状況になっています。同時に、若干体力の衰えも感じており、「本当にもう1年行って良かったのだろうか」「やっぱり去年でやめておいた方が良い思い出で終われたのではないか」などと思うこともしばしば。でも、逆に去年の写真を見ていて、また今年も頑張ろう、1年目の人達にもこんないい思い出を作ってもらおうと、ちょっとだけ前向きな気分にもなれたのです。
いよいよあと9日。10月30日に19期生としては初めての幕が開きます。新しい仲間とともに、そして見に来てくれる去年の仲間に対しても、せいいっぱいの舞台を届けたいと思います。(2010/10/21)
『世も末ね。働くだなんて…。』
いよいよ今日から小屋入り。すでに舞台はほとんど出来上がっており、照明のシュートまで終わっていたとしても、小屋入りは小屋入り。実際に客席が組まれ、照明が役者さんに当たると、また新たな気分になりました。
私にとって演劇は趣味なのですが、講師の先生方にとってはこれが日常で仕事。ただ、十年一日のデスクワークとは違って、毎回毎回の公演というのはそれぞれ特殊性があり、様々な問題もモグラたたきのモグラのように発生していくわけで、これを仕事としてこなしていくのはある意味大変だなあ、すごいなあと思います。私は昔から、例えば演劇のスタッフさんとか、イベント実施会社の社員さんとか、あるいは旅行の添乗員さんとか、非日常を日常の仕事にしている人に憧れているのですが、自分には無理なんだろうなと。心の振動のレベルが大きすぎて、精神的に参ってしまいそうです。娑婆の仕事で何度かイベントの企画をしたのですが、1年に1度きりなので「非日常」として乗り切れた気もいたします。
ともあれ、私にとって非日常である小屋入り9日間が始まりました。仕事として日常として冷静な目で見てくださっている先生方・スタッフの動きも学びながら、楽しくも緊張感あふれる日々を過ごしたいと考えています。(2010/10/23)
『あんた、いつも自分は正しいと思ってるでしょ。』
この台詞は本科台本からなんですが、相手に対して言ってはいけない言葉の一つかなあと。ただ、そう言いたくなる相手というのは、いくつになっても、独身でも新婚でもバツイチでも、新人でも中堅でも、必ずいます。これまでの経験上。
もちろん、よっぽど自暴自棄にでもならない限り、誰でも自分が正しい、自分のやっていることは間違っていないと思っているんですよね。ただ、そこに多少の不安や揺らぎというものがないと、相手や社会や運命に対する謙虚さが失われてしまうような気もするのです。楽天的すぎるのも、悲観的・否定的すぎるのも、いけないんだろうなと。適度な不安や揺らぎと、確信と過信とを抱えながら、微妙なバランスの中、人生を送り、自分の立ち位置を見つけていく必要があるのでしょう。
怒涛の1週間が過ぎて、今日は公演前最後の休日。少し冷静になって学校のことを思い起こしたり、ゆったりとした時間の中で職場の関係者と絡んだりしながら、そんなことも考えていたのです。(2010/10/25)
『ついはがしたくなっちゃうんですよ、パカって。』
重い話を書きだすと、とことん重くなってしまう公演前なので、軽めの話題で。
今回の本科のお話、非常に食べ物(演劇用語では、「消えモノ」と言ったりします)の登場回数が多いのですが、その中にマカロンが出てきます。「そういえば、一時はやったけど、食べたことがないなあ。話のタネに一度食べてみないと」ということで、そごう神戸店に行ってみました。
ところが、全然売っていません。ブーム当時ならどこのお店でも売っていたのでしょうが、結局見つけたのはアンリシャルパンティエ1軒のみ。そして1個170円ほどします。安いお店であればケーキが買えてしまう値段です。そして、一番びっくりしたというか意外だったのが、マカロンは要冷蔵商品で、冷蔵庫に入れても3日ぐらいしか持たないこと。クッキーの仲間かと思っていましたが、どちらかといえばケーキの仲間のようです。
なかなか美味しかったのですが、さて、今後何回も買いたいかというとかなり疑問。値段の割にはかなり小さく、あまりボリューム感やパンチも無いのです。マカロンは、そのほのかな味の違いや舌触りを楽しむものなのでしょう。おいしい紅茶(ベノアティーとか?)とかを頂きながら軽くつまむ、上流階級的なお菓子なのかなと。庶民には良さがなかなか分からないのかも。間違っても、蓋とクリーム部分を分解して食べてはいけませんね(笑)。(2010/10/27)
『きっかけと愛情は別物よ。』
いよいよ明日から合同発表会の本番です。正直、昨年度に比べるといまいち乗りが悪いなあと思って帰ってきたものの、去年の同じ日の日記を見ると、「若干モティベーションが下がり気味」とありました。1年たつと忘れているものです。思い出は美化されがちということなのかもしれませんな。
今週に入ってOBの方を見かけることも増えました。去年のOBである18期の仲間と会うことも多いのですが、会うと「本当にもう1年来て良かったんだろうか」ということを改めて考えてしまいます。まあ、行くにしろ行かないにしろ、動機やきっかけはどうであれ、最後に「1年やって良かったなあ」「本当に楽しかったなあ」と思えればいい(それが無理でも、後からいい思い出として思い出せる1年を過ごせばいい)わけで、今となっては卒業公演まで走るしかないのも事実です。
ちなみに、1年前のこの日の夕食は「ピリ辛ラーメン+中ライス」だったよう。今日は「コールドチキン+なすとベーコンのスパゲティ+タントパンチ」。去年の同級生と行ったのですが、なんとなく味が変わったのではないかと。本当にたった1年弱でも時は流れ、万物は流転するものですなあ。(2010/10/29)
『今、やりたいことがある。それだけでも凄いことかもしれない。』
ピッコロの合同発表会が終わりました。ここで書ける話と書けない話とがありますが、今回は、公私ともども、美術の仕事以外での悩みや苦労が多く、正直、不完全燃焼感が非常に高いです。とはいえ、楽日が来れば全て終わり、ホールはすっかり空箱になり、失敗も水に流して、翌日からは何もなかったかのように日常が回る、というのが、演劇の切ないところであり、何とも心良いところです。
作品の感想などは徐々に書いていきますが、私は今回、ロスコ(スモークマシン)を担当させていただきました。たかが煙なんですが、会場・舞台上の風向きや温度によって出方や広がりが全然違い、またマシン軌道時にはそこそこ特徴的な起動音が鳴ってしまうため、どうしても何らかの「音」にかぶせて起動させる必要があるなど、なかなか難しかったのです。これまで学校内外をとわず一般的に使ってきたのですが、ここまで真剣・神経質にロスコに取り組んだのは初めてで、その奥深さを十分に体感することができました。
合同発表会が終わると、軽音楽実習・歌謡ショー実習とあって、あっという間に卒業公演。ピッコロは最長でも2年間にしようと自分で決めているため、来年3月は本当に学校からの卒業です。ここで学んだことの卒業後の活用方法が定かではなく、また今回のようにいろんなことがあると、正直、何のためにここで演劇をやっているのか、本当に演劇をやっていていいのかと思うことも。でも、30代最後の年に、今やりたい事があるというだけでも、ある意味すごいことなんですよね。そんなエイコのセリフに励まされながら、残り4ヶ月ちょっと、もしかしたら人生最後になるかもしれない学校生活を味わいたいと思います。(2010/10/31)
『この家の中には、あとどれだけ秘密があるの?』(ピッコロパッソ研究科作品感想)
今回の合同発表会、何人かの知り合いの方に見に来ていただいたのですが、意外なほど好評だったのが、研究科の「知り過ぎた男〜孤島の殺人」。『意外だ』というのは、技術学校生は本番までに何度も何度も話を見てしまっており(実は私は上手袖幕の裏にいたので「見て」はいません。「聞いて」はいますが)、話がサスペンスなだけに、若干飽きてしまっている部分があるのです。ただ、初めて見る人にとってはかなり衝撃的で引き込まれるお話だったよう。このあたり、なかなか難しいものですね。
もともとの本の良さもありますが、やはり研究科の人々がしっかりとした技術でそれを支えたというのは間違いないでしょう。一人ひとりに長セリフがあり、感情を爆発させるシーンあり、さらに8人が8人、それぞれの性格を明確に作り上げないと話が生きてこないという、非常に難しい演劇を、なんとかこなしていたのではないかなと。そのあたりは安心感を持って見ていられます。
ところで、美術コースはこの台本を読んでプランニングをして言ったわけですが、私の第一印象は「非常に過酷な、まるで8人の女たちと主人とが裁判にかけられて、次々に事実が付きつけられるような話」でした。ところが女性陣の中には「ここに出てくるのは非常に素直で、愛すべき人々」というような意見が、かなり多かったのです。どうもそのあたりが、男性と女性の違いなのかもしれません。
一見かっちりとした絆で結ばれているように見えていた家族が、ふとしたきっかけで現実があらわにされ、それとともに崩壊していく…なんとなく、トラウマチックな経験が頭をよぎります(苦笑)。そういう意味では、直接的だけど「知りすぎた男」というタイトルはなかなか意味深だったりもするのです。(2010/11/1)
〔おまけ〕ピッコロパッソ研究科作品「知り過ぎた男〜孤島の殺人」 好きな名セリフ・名場面集
※恒例ですが、 個人的な趣味と嗜好のもと、記録を兼ねて残しておきます。
まずは、研究科作品の「知り過ぎた男〜孤島の殺人」から。もともとサスペンス・密室殺人ものということで、教訓的・前向きなセリフは数少ないのですが、気になったものをいくつかピックアップします。
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「いつも二人で何か企んでいる同志ってこと。」
「同士」ではく「同志」なんですね。この咲子のセリフがラストへの伏線なわけですな。ただ、父親を「同志」と呼ぶこと自体が、民主主義の時代であり、省三にとっては「興味がない」世界なのでしょう。
「寝室を別にするくらいね。」
現代日本ではむしろ別の方が普通になりつつありますね(笑)。ある意味他人に気を遣いすぎるほど使うのが典型的な日本人ですから、必要が無くなれば(苦笑)、別室というのも合理的な思いやりの形かもしれませんな。
「心からのくちづけとともに。あなたの乙女、斜線、あなたを慕っている乙女、斜線、乙女の乙女、斜線、乙女という乙女…」
セリフを言っている美和さん、実に楽しそうです。このお話、サスペンスものということもあって楽しいシーンは数少ないのですが、このシーンだけは非常に楽しく見ていることができます。ある意味、乙女さんは一番素直で裏表がないともいえます。
「この家の中には、あとどれだけ秘密があるの?」
「こんな有象無象に囲まれて、正気でいただけで奇跡だわ。」
たぶん家というのは、中に対しても、外に対しても、たくさんの秘密を持っているような気がします。で、お互いそれを知らないように、見ないようにして生活しているのでしょう。それが明らかになってしまった時、正気が崩れ始める…。殺人事件よりも、そのほうがずっとホラーです。(というか、まあ、そういうお話なわけですね。)
「お父さん、二人で出かけましょう、ずっと遠くへ!」
実は「いたいけな咲子嬢」のイノセントさが一番、省三を傷つけたという気もします。残りの7人は、省三が死んでもそのまま、今までの暮らしを続けていきかねない雰囲気があるのですが、咲子だけは、どういう方向にかは見えませんが、変わらざるを得ないのではないかなと。講談から、ピストルの音、階段での座り込み、という一連の咲子のシーンは、非常に見ごたえがありました。
その他のシーンなど
セリフよりも動きで見せるお芝居でしたので、袖裏からでは良く分からなかったところも多いのですが、ご隠居が立ち上がるシーンのドタバタ、お律と美和の「ああ、もう!ごめんなさい、美和さま!」「そうくると思ったわ。」というシーンの緊迫感、咲子のきっぱり「却下します」(笑)なんかが気になりました。進行に関わっていると、どうしてもよく見ることができないので残念!
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『私たちのステージへ、出発!』(ピッコロパッソ本科作品感想)
今回、技術学校生や先生方の中で非常に評判が高かったのが本科の「漂流者たち〜時の絆〜」でした。これまでの、直接は話の筋が関係ないオムニバス形式とは違い、一応一つの世界観の中で進む話。初めて舞台を経験する人も多い中、いろいろな苦労もあったようですが、脚本のストーリーの良さといいセリフにも助けられ、「過去数年間で一番」と言われるほどの舞台を作ってくれました。
この作品が特に内部に受けたのは、「演劇を志そうとしている若い人々に対して、ちょっと年齢層上の人々が贈るメッセージ」という主題が、年齢に幅がある学校生(や講師陣)にぴったりだったというのもあるかと思います。今年の本科生は真剣に演劇を職業にしようと思っている人が多く、一方で演劇を職業にしていた経験がある人もいたりします。20代のころ、演劇でも音楽でも学問でも仕事でも家庭でも恋愛でも、何でもいいけど何かに打ち込んできた人が、30代、40代になって、10年前を振り返る。そして、結果はどうであれ、その打ち込んできたこと自体に意味があり、それが自分を作り上げているのだということに気づく。だからこそ「この先やりたいことが変わったとしても、それを続けた先に何かがある」。自分自身を振り返っても、とても共感できたのです。
細かいミスも無くはなく、演技力にはばらつきがあり、人間関係のややこしさもいろいろとありそうです。合同発表会を体験して、演劇をあきらめる人も出てくるかもしれません。ただ、1回舞台を経験したことで、明らかに本科生の目は変わりました。ここからが新たな出発。3月、ピッコロ演劇学校1期生の谷省吾さんが演出する卒業公演、本科28期生の1ファンとして、どんな世界を繰り広げてくれるのか、楽しみに見守っています。(2010/11/3)
〔おまけ〕ピッコロパッソ本科作品「漂流者たち〜時の絆〜」 好きな名セリフ・名場面集
※恒例ですが、 個人的な趣味と嗜好のもと、記録を兼ねて残しておきます。
本科作品は、かなりたくさんいいセリフが出てきます。最初で最後の舞台になる子もいることから、ある程度重みのあるセリフを多くの人に散りばめている、ということもあるのかな。
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「でも、ああいう経験をするとさ、人間病弱だろうと健康だろうと生きているだけで奇跡って思えるんだよ。」
実は通し稽古の時には、この前にチリの鉱山事故の話があったんですよね。本番で消えてしまったのはちょっと残念かな。ちなみに、このシーン(オフィス)ででてくる水野まきちゃん。一ノ瀬ことみを彷彿とさせる髪型としゃべり方。当て書きとの話も聞きましたが、ツボです(笑)。
「本当に大切やったら、絶対に無くしたらあかんねん!」
一番難しいのは「何が本当なのか」なんじゃないかなと、ちょっとひねくれたアラフォー世代は思いますが、「本当に大切なものは、無くして初めて分かる」へのアンチテーゼとしては実によく分かります。オレオレ詐欺は出来が頭一つ抜けていました。
「私、三人姉妹の長女だからね、面倒見がいいの。」
「何か色々嫌になっちゃったー。想像と全然違うんだもん。」
長女=面倒見がいい、というのはステレオタイプの一つですが、実は本人自身もまんざらでもないというのは良くあります(笑)。そして、その面倒見がいいお姉ちゃん10年後のセリフが下段。台本チームに既婚者がいるのでしょうか(笑)。ただ、このお話にどこか流れる「演劇への夢」に照らし合わせてみると、また違った感慨があります。
『社会に出ると、『ああ、どんなに努力しても叶わないことってあるんだな』って思っちゃって。でもね、後悔してないんです。今の仕事にすごくやりがいを感じてるから。』
『いい?あんた達まだ若いじゃないの!何かに向いてるとか、向いてないとか、そんなのはね、いつかその時が来たら分かるの!続けられることも才能って言うでしょ?本当にそう!20歳でやめたら、20歳までの才能、30でやめたら30まで、40でやめたら、40まで。一生続けられたら、それはね、一生分の才能があったってことなのよ!だからやってみなきゃわかんないじゃないの!』
作品上では、ロックバンドと音楽の話なんですが、やっぱり演劇の話だろうなと。演劇でなくても、どこかに進もうとし、何かになろうとする若い人たちへの大人からのメッセージがあります。ちなみに上段のセリフは社会人・小春さんのセリフですが、女子高生・小春→社会人・小春はなんとなく、ほわっとした雰囲気が似ていて、いろいろと2人で打ち合わせたのかなとちょっと思っていました。
「今、やりたいことがある。それだけでも凄いことかもしれない。例えこの先、やりたい事が変わったとしても、それを続けた先に何かがある、そんな気がする。『たった一度の人生だから。』そう思えた時、私は、自分の足に力を込め、歩こうと思った。」
今回の舞台の一番の決め台詞でしょう。役者さんは感情から入っていたようで、半分泣きながら、でも精いっぱいの笑顔を見せて、この台詞を語っていたのが、とても印象的。他人に投げかけるセリフであったと同時に、自分自身に向けてのメッセージでもあったような気がしました。
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『10年経ったら…どうなってるんだろ?』
ちょうど10年前の11月、私はニューヨークにいました。ブロードウェーでオペラ座の怪人やミス・サイゴンをみて感動したり、ニューヨークフィルに3度も通ったり、自由の女神や国連本部を見に行ったり。まだ妻となる女性とは出会っておらず、WTCビルもしっかり立っており、「ワインなどの液体は割れると困るので預けずに機内持ち込みに」と言われていました。一過性のイベントで終わる予定だった「但馬まるごと感動市」を無事やり終え、ちょっとだけ自分にご褒美ということでアメリカまで遠出したのです。関空からアメリカにはたくさんの便が飛んでおり、ノースウエストが一番多かったのですが、時間の都合でダラス・フォートワース行きのアメリカン航空を使ってみました。
あれから十年、私は午前中、県庁で仕事をして、午後から実家発で関空に向かい、台湾に飛びます。出発前にということで、父がカステラを切ってくれました。自宅にはMKタクシーが迎えに来てくれます。飛行機のチェックインはすでに自宅で終わっており、直接手荷物検査場へ行けばよいようです。もはや日本人はE−Dカードを書く必要もありません。ゴールドカードがあるので、ラウンジでゆっくりもできます。ビジネスで行くほどの余裕は今もないものの、マイレージで帰りはビジネスに乗れます。本当に、十年前は思いも付かない状況で、思いも付かない海外旅行に出かけます。
あと10年後、2020年11月。また私は旅に出かけるのでしょうか。その時はどんな状況でどこへ行くのか。そんなこともちょっとだけ考えながら、いそべさとしの海外旅行第16弾「台北花博に行こう!」、スタートです!(2010/11/5)
11/7は台湾にいますので、更新は11/9以降になります。
近くて近い国 台湾
この週末、台湾に行ってきました。実は、海外旅行16回目にして台湾は初めて。韓国や中国には複数回行っているのですが、なぜか台湾には縁がありませんでした。「中華料理は一人旅だと食べにくそう」という先入観が若干あったのも事実です。
で、行ってみての感想ですが、「何でもっと早く来なかったんだろう」と。日本から3時間弱と至近距離にあり、出入国手続きも非常に簡単。食べるものは美味しく、一人でも存分に楽しめるB級グルメ天国。日本語も良く通じるし、移動や宿泊に際しての困難さやいらいら度も非常に少ない。さらに、食費と交通費という旅行の主要経費が、相対的に見て非常に安い。朝から深夜までグルメや観光が楽しめるので、1日が存分に使える。今回のように「週末を使って、ちょっとだけ海外気分を味わう」には最適な場所でした。
それとともに、様々な場面で、どこか穏やかな社会の雰囲気が感じられたのです。もちろん、今、台湾は統一地方選挙を迎え、激しい政治の季節に入っているわけですが、それも社会が安定したうえで戦っている雰囲気が感じられます。そこは、一見安定した社会であるように見えながら、「警察」「公安」の力で無理やり民衆を押さえつけていることが感じられる中国とは大きな違いです。(もちろん、中国と台湾とは人口や歴史、「民度」の違いも大きいので、どちらが正しいとかは一概には言えないのですが…。)日本と全く同じとはいえないものの、また違った意味で安心できる、穏やかな社会がそこには広がっていました。
近くて近い国、台湾。九州ほどの広さに、日本の6分の1程度の人々が暮らす、美しい島。何度も通いたくなる、何度も通ってしまうであろう場所ができました。(2010/11/9)
いま風は台湾へ!
今日からうちの両親が台湾に旅立ちました。たまたまだったのですが、両親はツアーで台湾1周してきて、最終日にちょっとだけ台北花博を見学してくるのだそうです。花博会場からの帰りは各自ホテルに戻れということですが、このホテルも私が泊まったホテルから至近距離。先週の台北行きは、食事ができる場所はこことか、帰りのルートはこうとか、期せずして下見も兼ねてしまっていたのでした。さらに、友人の一人も来週、台湾に行くとのこと。なんだか私の周囲が急に台湾づいています。
ただ思うに、台湾は今後トレンドになる可能性が高いです。一番大きいのは「羽田−松山直行便の開設」。松山(愛媛)ではなく、松山(台北)に、11月から直行便が飛んでいるのです。羽田空港も松山空港も都心から至近距離にあるため、東京・台北は日帰り観光も可能になったとか。一方、大阪では関空−台北にジェットスターアジアという格安航空会社が7月から飛んでいます。こちらは何と言ってもその安さが魅力。平日ならば往復2万円以下も。時間も値段も、台湾との距離が確実に近くなっているのです。
さらに、最近のB級グルメブーム。「B1グランプリ」を頂点に、「全国おでんサミット」だの「全国やきそば選手権」だの、さまざまなB級グルメイベントが全国各地で行われています。また、有名になった店はすぐにネットに出回り、行列ができています。一方、台湾はおそらく私がこれまで回った10数か国の中で一番かつ最高のB級グルメ天国。朝の豆漿(豆乳)に始まり、魯肉飯(そぼろ肉丼)、牛肉麺、小籠包、担仔麺、胡椒餅、デザートには珍珠女乃茶(タピオカミルクティー)に芒果冰(マンゴーかき氷)と、短い滞在期間ではとても制覇できないほどたくさんのB級グルメたちが手ぐすね引いて待っているのです。国内でのB級グルメ掘り起こしがほぼ限界に近付く中、次は近くて近い隣国・台湾に必ず目がいくだろうと予言しておきます。
来年、台湾が「民国100年」の記念すべき年であること、台北101の花火が世界的なカウントダウンイベントの一つとして定着しつつあること、また中国と日本との関係悪化も台湾にはプラスかもしれません。ということで、明らかに流行は台湾に向かっています。さあ、みんな、乗り遅れないように、気軽に台湾に行こう!(2010/11/11)
『まずはお友達から』
今日は新開地にあるKAVCホールで友人の劇団のお手伝いに行ってきました。明日もあるのでネタばれは避けますが、なかなかよいお芝居でした。明日も2回公演があるようですので、よろしければぜひお越しくださいませ。(詳しくは、劇団ホームページで。)
このホールには、10数年前、私が神戸に戻ってきて就職してからの2年間、演劇を見にかなり通いました。社会人なので無理だろうなと思いつつ、「もし良さげな劇団があれば参加できるかなー」という淡い期待があったのも事実です。実際はそんなこともなく、その後激動の人生(?)を経て、また演劇に携わり、今こうしてKAVCにスタッフサイドで立っている。なんだか不思議な気がしました。「新しいホール」という印象があったKAVCももう15年経ったとのこと。それだけ私も年を取ったということではあります。
今日は、劇団員の一人がピッコロ舞台技術学校の同級生ということでお手伝いに行ったのですが、お手伝いスタッフにもピッコロの人が数名。さらに、お客さんにも何人かいらっしゃいました。ある方にびっくりされましたが、ピッコロの友人のつながりってすごいなあと。もちろん、それぞれが「技術を身につけたい」「ここで何かを学んでいってやろう」という野心もあるとは思うのですが、純粋にお手伝いしてあげたい・見てあげたいという気持ちも間違いなくあるはずです。変な話ですが、ピッコロを離れた場所で逆にそれを強く感じました。
人によっては、ピッコロでの技術を更に磨いてプロとして、生活の糧としてやっていく人も出てくるでしょう。でも、まずは友情から始まる関係。そんな関係を作れるピッコロ舞台技術学校ってやっぱりかけがえのない場所なのだなと、10数年前は思いもよらなかったKAVCで感じたのでした。(2010/11/13)
『失敗のない成功こそが一番の失敗なのかもしれない』
前回も書いたとおり、今回の公演にはかなりピッコロ関係者が多く関わっていたのですが、みんな普段から慣れたピッコロシアターではなく、役者さんや他のスタッフさんも勝手が違い、なかなかうまく仕事がはかどらなかった人も多かったようです。私自身、受付というか会場整理をやったのですが、実は演劇で会場整理をするのは初めて。(娑婆の仕事で、講演会とかでやったことはありましたが。)ホールの特性なども十分に把握していない中で大丈夫だろうかと多少不安を抱えつつ、仕事をスタートしました。
暗い中、遅れてきた人をペンライトで足元を照らしながら誘導する…というのはこれまで何度も見てきましたし、自分自身が誘導されたこともあるのですが、これがやってみるとなかなか難しい。公演中なのであまりしゃべれない中、「早く見たい」と焦っているお客さんに、こちらの意図をノンバーバルコミュニケーションでいかに伝えるのか。また、どの場面でどの席に誘導するのが、一番他のお客さんの迷惑にならないのか、なかなか難しいものです。また、トイレのために途中で席を立つお客さんの誘導や、劇中に騒ぎまくった子どもの扱いなど、どう動いたらよいのか臨機応変の対応が要求されることもありました。客席誘導、これもなかなか奥深いお仕事で、非常に勉強になりました。
そして、さらに勉強になったのが、「観客の質が演技の質を相当に左右する」ということ。どっと笑いや拍手が起きやすいか否かというのは分かりやすいのですが、たとえ笑い声などに表出されなくても明らかに観客が発しているオーラというものがあり、それはその回その回のお客さんによってかなり異なっているということを、さすがに5回も同じホールの中で同じお芝居を見ていると体で感じたのです。私自身、四季や宝塚などの商業演劇系が大好きで、観客の違いで演技の違いが出てしまうことには多少批判的なのですが、でも観客によって演技が違ってしまうことは仕方ないよな、むしろそのインタラクティブの中で演劇は生まれるんだなと再認識させられました。これも大きな収穫だったような気がします。
いろんなホール、いろんな劇団、いろんな観客と関わって、失敗したり成功したり、悩んだり嬉しくなったりしていくことによって、逆にホームグラウンドであるピッコロでの演劇にも違った意味と意義を見いだせる。そんなことも分かり始めた、技術学校2年目の冬でした。(2010/11/15)
『全ての物語をハッピーエンドにしたいんです』(懐中電燈レーシング第6回公演「ようこそ! 雫本通り商店街へ!」感想)
最後になりましたが、作品の感想など。
作品中で鮫島探偵が語っているように、確かにこのお話はハッピーエンドです。ここのシーンの出来は色々だったりするのですが、全体的には綺麗に物語が流れていきます。私の好きなタイプのお芝居です。ただ、惜しむらくは、このお話が第4回公演の続編として作られており、それを知らないからと良く分からないんだろうなーと思わせる登場人物やセリフが結構多いこと。ここは今回初めて見に来てくれたお客さんに対しては非常に厳しいところで、例えば公演前に語りを入れるとか、映像を流すとか(夏ざくら方式ですな)、パンフレットに前回のお話を詳しく書いておくとか、もうちょっと工夫の余地があったのではないかと思うのです。映画風のCMだけでは、少なくとも私には分かりませんでした。
作品の圧巻はやはり「夕日の屋上」でしょう。特に前明かりのないシルエットだけの時の川崎さんは実に綺麗でした。あのシーンのためだけに仕込んだファンに照明。シーンに合わせて盛り上がっていく音楽。いかに気合が入っているか良く分かります。真面目モードの千林さんも、感情を爆発させつつも冷静な三宅さんも、なかなか素敵なキャラ。せっかくあれだけのおぜん立てがあったのですから、もうちょっと長セリフを語ってもらってもよかったのかなと思います。
ともあれ、お話も役者もスタッフもエンターテイメント性も、凸凹はありながらも一定以上の水準を保っているのはさすが。6回目ということもあるのかもしれませんが、やはり一種のプロ意識が強いのかなとも感じました。今後どのようなお付き合いになるのか分かりませんが、ファンとしてはずっと見に行くんだろうなと思っています。いろいろとありがとうございました&お疲れ様でした。(2010/11/17)
物語なき演劇と人生(ピッコロ劇団公演「花のもとにて春死なむ 本朝・櫻の園・顛末記」感想)
別役実氏の新作。卒業公演の演出家でもあった佐野剛氏の演出。西行法師の歌をもとに、チェーホフの「桜の園」を織り交ぜつつ展開される、「桜と遊女をめぐるブラック・ユーモア・ナンセンス喜劇」。
私はピッコロ舞台技術学校の鑑賞授業として見たのですが、この作品に対する学校生の感想は完全に真っ二つに割れました。「素晴らしい」というのと「眠かった」というのと。私はどちらも納得できます。
この作品、遊女が桜の木の下にやってきて死のうとする、その女性には様々な過去がある、最後は桜の中で死んでいくという非常に劇的なストーリー。少女に対して「でんでけでん」と2人が間合いを詰めていくシーンや、全員が蓆の上で一斉に後ろを向くシーンなど、衝撃的なシーンも非常に多いです。ところが、この作品からは「物語」が感じられません。あえて作品中から、予定調和的な「物語」性を排除しているようにも見えます。ただ、そこで演じられるのは、美しくて儚くて、でもしっかりと根をはった、まるで桜のような人生の側面でもあるのです。
そう思ったのはハリウッド映画の方法論とを比較して考えたからで、逆にいえば、今回の作品は映画やテレビドラマとは違う、演劇ならではの表現方法と可能性ともいえます。だから、この作品を評価し、好きだという人は、どちらかといえば演劇をよく知っている人orよく知っていると自分で思っている人になるのかなと。逆に物語を追っていった人は、眠かったとなるのかなと。私はちょうどその中間あたりにいるので、眠いけれど美しいお話だったな、という感想なのでしょう。
今回の作品は、別役さん(&演出の佐野さん)が自分のやりたいものを、やりたいように作ったんだろうなと。それを表現する場とそれを評価する人々が確実にいるというのも、また素晴らしいことのように思えるのです。(2010/11/19)
見せること 見られること
昨日、今日と、多少、演劇の真似事的なことをやってきました。詳細は気が向いたらまたまとめるかもしれませんが、今日、一番実感したのは「自分の身体や行動が他人からどう見られているのか、自分の存在が相手にどうインパクトを与えているのかというのは、普段は意外と意識していないな」ということ。
もちろん、服装がおかしくないかとか、怪しすぎないかとか、そういうことは最低限、気にはしているのですが、自分の行動や体への積極的な意識というのは、よほど初対面とかでない限りは、ほとんど気にしていないものです。もちろん、そんなことを過剰に気にしていれば日常生活というのは送れないのですが、少なくとも役者というのは、舞台上ではそれを必ず意識する必要があります。舞台上で表現し、相手に何かを伝えるには、普段から相手に身体や動作を見せる、見られるということを意識する必要があるのでしょう。舞台上では、決して美しい女性やイケメン男性だけが目を引くのではなく、むしろ私のような中年男性の方が大きなインパクトを与える可能性も十分にあります。役者というのはなかなか大変な仕事だなあと、改めて感じてしまいました。
言葉や論理だけではなく、身体も使いつつ、どう相手にインパクトを与え、訴えていくのか。もしかすると実用的にも役立つ技術・意識なのかなと、そんなこともちょっとだけ考えてしまったのでありました。(2010/11/21)
同じサイクルが繰り返される それは人生の一部なのである(南河内万歳一座公演「ラブレター」感想1)
大学時代の心理学の教科書(今田寛ほか 1991 心理学の基礎改訂版(培風館)179ページ)から。
『手続きはまったく簡単である。まず、物をいくつかの山に分ける。もちろん、全体量によっては、一山でもよい。設備がないためどこか他の場所に行かないといけないとしたら、それは次の段階であり、そうでなければ、あなたの準備はかなりよく整ったことになる。大事なのは一度にあまり多くやらないことである。つまり、一度に多くやりすぎるより、むしろ少なすぎる位の方がよい。この注意の必要性はすぐにはわからないが、もし守らないと簡単にやっかいなことになってしまうし、お金もかかることになってしまう。最初この作業はまったく複雑に見えるかも知れない。しかし、これはまさに人生のもう一つの面となるであろう。近い将来にこの作業の必要性がなくなると予想することは困難で、決して誰もそれについて予言することはできない。手続きがすべて完了すると、物をまたいくつかの山に分けて整理する。次にそれを決まった場所にしまう。作業の終わった物は再び使用され、そしてまた同じサイクルがくり返される。やっかいなことだが、とにかくそれは人生の一部なのである。』(Bransford & Johnson, 1972. 訳は御領, 1979.による)(2010/11/23)
洗濯物は回る(南河内万歳一座公演「ラブレター」感想2)
ある人から言われたんです、「いそべっちの好きなタイプの芝居じゃないよね。同じ事を何度も何度も繰り返して言っているし」と。確かにそれはそうなんですが、でも、このお話は「巡り巡るものを巡るお話」。それはそれでとっても分かるというか、何かが伝わってきました。
特に秀逸だなあと思ったのは、初演の時もそうだったらしいのですが、このお話の舞台が「コインランドリー」であること。洗濯という行為は実に日常的な「家事」なのですが、いつも同じものを同じように洗っていると思っていても、実は服の状態やポケットに入れて忘れたものやどんな服が混ざっているのかは絶えず変化していて、一度として同じではないし、決して元にも戻らないのです。何度も何度も、一見繰り返し、繰り返しのサイクルをこなしていく中で、時間が過ぎ、人生が過ぎていく。30年という年月が経った今、再演といっても決して同じ筋書き・同じせりふを繰り返すことは出来ない、繰り返すわけにはいかないという登場人物・作者の思いを、しっかりと受け止める場がそこにはありました。
年明けの東京・スズナリ、北九州公演を経て、南河内万歳一座は1年間の休団に入るそうです。その1年間の間にも、洗濯という行為は全世界で続き、コインランドリーは営業を続け、演劇界も動いています。貴重な休団の成果を、1年後、南河内は舞台上でどう表現してくれるのか。友人の劇団員の成長とともに、とても楽しみにしているのです。(2010/11/25)
演劇は世の中を変えられるか
標記の質問が、某授業であったんだと。で、全員がYESに手を挙げたとか。
私は天の邪鬼なのか、隠れユダヤ人なのかわかりませんが、全員一致の賛成というものにはつい反論したくなります。で、いろいろと考えていたのですが、多分演劇は世の中を変えられるのでしょう。でも、それは強弱はあれ、どんな芸術であっても、それが他人に対して発せられるものであれば全部そうなんだろうなと。たとえば、ナチスが実権を握るまでに、音楽や映画、ファッションなどが世の中を変えるのに果たした役割というのは実に大きいものがあります。あるいは、ロボット好きとか、妖怪好きとか、アニメが日本人の感性に与えた影響というのも無視できません。演劇以外の芸術も世の中を変えられるし、むしろ変えてきた。相対的に見ると、少なくとも現代日本において演劇が世の中を変えることに果たしてきた役割というのは、非常に小さいような気がしてなりません。
ただ、いい演劇を見た後は、ちょっとだけ身長が高くなったような、ほんの数ミリ体が浮き上がったような気分になるのも、また事実だったりします。世の中の見方がちょっとだけ変わる、あるいは新しい見方が加わるのかもしれません。世の中は大きく変えられないかもしれない、だけども観客の何人かには確実に届いて、何かを変えることができるかもしれない。そんな演劇の限界と可能性を感じつつ歩いた、KAVCホールからの帰り道でした。(2010/11/27)
バイバイ・ラブ・アゲイン社へようこそ!
(劇団ヴァダー公演「別れさせ屋★パートU」感想)
土曜日に観劇。お話自体はかなりベタな、別れさせ屋が活躍して、人と人をくっつけたり別れさせたり真実を暴いたりする芝居で、気軽に見れます。1時間50分のお芝居だったそうですが、時間が気になることもなく、大いに楽しませていただきました。まず良かったのがダンス。私は自分が全く踊れないからか、お話の流れを止めることなく入ってくるダンスには弱いのです。今回はオープニングとエンディングでしたが、どっちもばっちり。テンションをあげてくれました。
そして、舞台上には、実に個性的な登場人物と役者さん達。特に、別れさせ屋の工作員である「ゴディバ」「キース」はコミカル&シリアスな演技で、大いに笑わせ、ほろっと泣かせて。ああいう芝居を見ると、役者さんって素敵だなあと思ってしまいます。もちろん、他の登場人物も、良くも悪くもキャラが立っていて個性的です。ただ、それ以上にいいなあと思ったのは、そんな個性的な登場人物たちを包み込む、どこか遠くからの暖かいまなざし。偶然の出会いも別れも、意図的な出会いも別れもあるけれど、そんな出会いと別れの中でみんな一生懸命生きているし、生きていこう。メッセージというよりは、そんな「思い」が舞台上から感じられるのです。某マイミクさんの言葉を借りて言えば、作者と演出家と役者とが舞台上にある世界を信じている、ということなのかもしれません。だからこそ、決してハッピーエンドばかりでないのに、幸せな劇後感が味わえるのでしょう。
登場人物一人一人に愛しさを感じ、自分もバイバイ・ラブ・アゲイン社の、あの世界の中に入ってみたいなあと思わせる芝居。最近、あまり出会っていなかっただけに、新鮮な気持ちにさせてもらった土曜日の夜でした。(2010/11/29)
いまもこの世界のどこかで
今日は上司と一緒に、車で西神へ出張。その帰り道、途中から急に渋滞となり、車が動かなくなってしまいました。
「普段は、ここまで混むことはないんですけどね、困りましたねー」と運転手さん。事故かなあとと話していたところ、「あっ、正面衝突ですね」。少し進んだところで市バスと軽自動車が正面衝突していました。すでに何台かのパトカーや消防自動車は来ており、交通整理は始まっていたものの、まだ車内に取り残された人がいるのか、オレンジ色の服を着た神戸市の特別高度救助隊が車の周囲で作業中。そこでは生死を分ける緊迫した作業が続けられているのでしょう。その横を何事もなかったかのように通り過ぎて、職場に戻ったのです。
あそこではあれだけ緊迫した状況にあるのに自分は何もできないし、また何事もなかったかのように日常は通り過ぎていく。車で職場に戻っている間、何だか妙な違和感を感じました。1995年1月17日午後3時、震災の日の午後、筑波大学の学生食堂で「卒業謝恩会」の打ち合わせをしつつ感じた違和感と似ている気も。もちろん、訓練されたプロの方々の手にゆだねるしかないし、そのほうがずっと効率的なのも分かってはいるのですが…。ただ、持っていて何になるのかは分からないけれど、この違和感というのは大切に持って置くべきものなのかもしれないなと、ちょっとだけ思ったりもしたのです。(2010/12/1)
グルメなランチ1週間
私は、お昼は外に食べに出ています。買ってきたお弁当でも良いのですが、せっかく独身なわけですし(笑)、お昼も楽しもうかなと。さらに、私の職場である神戸元町山の手にはなかなか魅力的なお店が多いのです。
いつもは同僚と一緒に次々に新しい店を開拓しているのですが、今週1週間は彼が出張。ということで、この1週間は自分の趣味だけに走る「スペシャルウィーク」とすることにしました。いつもは「千円を超えない」というのが一つの基準でもあるのですが、その制限も取っ払った1週間の結果がこちら。
・月曜日:すーぷ房くだら
(韓国料理)「ピリ辛カレースープ」800円
・火曜日:アズーリ(イタリア料理/ピザ)「フンギ フォン フォルマッジ」1,575円
・水曜日:民藝(うどん)「げそ天生醤油定食」870円
・木曜日:ときどき(お寿司)「お寿司12カン」1,000円
・金曜日:マルシェ(洋食)「有頭エビフライ定食」1,200円
いずれも、いそべお薦めの珠玉のお店です。アズーリは少々高めですが、フルサイズのナポリピザ1枚+生サラダ+ドリンクですから、まあお値打ちといえばお値打ちです。神戸のレベルが高い中華が入っていないのですが、中華というのは、一人でというよりは複数人で行ったほうがしっくりくる気も。また、インド料理もいいランチがあるのですが、ちょっと遠い場所になり、週の後半に体調を崩してしまった中でそこまでいく元気がありませんでした。(とはいえ、体調の悪い中でもこれだけ行ってしまうのは、食気は別ものというか何と言うか…。体調が悪い時は「元気をつけるために食べないと」と思い、体調のいい日は「今日は元気だご飯が旨い」では、絶対痩せませんな…。)
来週からは、また同僚と開拓の旅となるでしょう。すでに自分の職場周辺ランチ店ストックは100軒を優に超えていますが、さらなる名店を求めて、毎日1時間弱の旅が続きます。(2010/12/3)
ピッコロ劇団から観客へのプレゼント。それとロシア。(ピッコロ劇団オフオフ2010感想)
「プレゼント」という季節感のあるテーマを題材とした、一見軽めに見える2本立てだったのですが、「ガチンコ勝負」「創造活動の今後を考え模索」ということで、決して軽めなだけではない、考えさせる実験的な舞台でした。
1作目は「とけないゆき」。演出ノートによると「大事なものを残しながら、少しずつその風景を変え、記憶は成長していく。時が過ぎて、それでも残っている雪」とのこと。満州映画協会や、岡田嘉子と杉本良吉のソ連亡命、そして1970年の大阪万博など、様々なモチーフを交えながら、受け継がれる記憶の姿を解き明かしていきます。一方、2作目の「女装作家」は、演出家によると「あなたと出会うことは全てあなたが創造している」というのが主題。売れっ子50代女装作家のドタバタ劇を演じながら、そうやって自分なりの物語を紡いで生きていくしかないし、そうやって生きていくんだという、諦観と覚悟と決意が垣間見える作品でした。
ちなみに今回、終わった後に一瞬「これどう感想書こうか…」とちょっと思ってしまいました。かなり個人的な思いやエピソードも取り交ぜられているようで、そんなに分かりやすいお話ではないのです。ただ、ストーリーの中にも、セリフにも、あるいは当日パンフレットやフライヤーやHPの告知の中にもいろんな手掛かりがあって、一種の謎解きのような面白さも。「プレゼント」を共通テーマにした2作品が、いずれも受け取る側に重きを置いて描いていたというのも、興味深く思えます。見終わった直後にピークがあるのではなくて、こういう、後からじんわりくるお芝居もいいもんだなあと。それと、ロシア。楽屋ネタ感はありますが、十分に楽しませていただきました。こういうのができるのもオフオフならではで、色々と大変なようではありますが、今後も続けてほしいと思いました。(2010/12/5)
それは短い1日の一瞬の出会いかもしれないけれど。
(USJ「ウィケッド」感想)
USJ(ユニバーサルスタジオジャパン)でWickedの特別版をやっている…というのは昔から知っていたのですが、なかなか誘う人も無く、誘っても断られたりして(泣)、今まで行けずじまいだったのです。ところが、先日調べていると、「4年間続いたUSJでのWickedは、来年1/10で終演」とのこと。もうジタバタしている余裕はないということで、抵抗感がなくはなかったのですが、昨日、初一人テーマパークをしてきました。もちろんメインの目的はWickedですから、この日に行われた2公演をいずれも観劇しました。
ダイジェストということで本編を知らないと厳しいかなと思うところも多々ありましたが(特に、なぜ2人が仲良くなったのかとか大魔法使いはどんな陰謀を持っているのかとか)、それでも十分に一つのお話として分かるようになっています。そして、歌もダンスも一番いいところだけを抜粋していますから、ずっとテンションあがりまくり。英語で歌っているのも、四季の日本語訳詞とは違ったしっくり感があります。そして、Defying Gravityからラストシーンまでの流れは、やはり素晴らしい神展開と言わざるを得ません。最後の幕が振り落とし風に落ちるのも、実にカッコよかったです。USJの出しものは全体的に高品質なのですが、中でもとりわけレベルの高い、高品質のショーに仕上がっていました。
ただ、抜粋したこともあって決して分かりやすいストーリーでない中、しっかり35分間のミュージカルというのお子様にはしんどいようです。1回目は眼の前の女の子がぐずっていて、2回目は横のお兄ちゃんがいかにも興味なさげで、結構気になりました。まあ、テーマパークのショーの一つという扱いなので仕方ないともいえます。とはいえ、1回目は横の女子高生たちが目頭を熱くしていましたし、2回目もお兄ちゃんの彼女の方は一生懸命拍手していました。演じる場所や演じる方法は様々でも、いいストーリーやいい歌で、役者さんの本気の演技があれば、それはちゃんと伝わる人には伝わるということを改めて認識したのです。
四季のWickedの方も2月13日に千秋楽とのこと。大阪で、10キロと離れていない場所で、毎日2つのWickedが上演されているという奇跡的な状況ももう終わりに近づいています。もう残りは少ないけど、これからも少しでも多くの人に、ミュージカルの感動と面白さを伝えてほしい。そして、ここでWickedに出会って何かを感じた人が、他のミュージカルや演劇にも興味を持ってくれたら嬉しいなと、そんなこともちょっと思ったのです。(2010/12/7)
失われない10年
さて、前回も書いたとおり、Wickedをきっかけに一人USJに行ったわけですが、いつもの(?)制覇熱が出てしまい、結局、ほとんどすべてのアトラクションを体験してしまいました。[後日の参考のために体験したものを記録しておきます。10:10入場→スペースファンタジー→スパイダーマン→ジュラシックパーク→ジョーズ(シングルライダー)→ハリウッドドリーム→モンスターライブ・ロックンロールショー→Wicked→シュレック4D→Wicked→バックドラフト→バック トゥ ザ フューチャー→ターミネーター3D(綾小路麗華様で締め)→18:30退場。一番待ったのはBTTFの約30分] Wickedと上演時間がどんかぶりだったウォーターワールドを見れなかったのが残念なぐらいで、概ね制覇してしまった気がします。
実は私がUSJに前回行ったのは9年半前、開設から1週間目のことでした。発売日の早朝、豊岡駅に並んで(というか私しか並んでいませんでしたが)、発売開始と同時にチケットを確保したのを良く憶えています。その当時からのアトラクションも、ジュラシックパーク、ジョーズ、バックドラフトなど結構残っていて、懐かしさも感じました。それとともに、10年選手と、スペースファンタジーやスパイダーマンのような最新のアトラクションとの差を感じてしまったのも事実です。スペースファンタジーやシュレック4Dのような、近年できた新しいアトラクションは、アトラクションに至るまでの導線や終わった後の処理が非常にうまい。待ち時間すらも楽しめるように出来ています。一方、古いアトラクションは「突然乗り込み、降りたらそれで終わり」的なものが多く、作り自体も若干おもちゃ感がなくもないのです。10年前、初めてUSJに行った時にはパークやアトラクションのあまりの精巧さにびっくりしたのですが、この10年の間に私やゲストの見る目も厳しくなり、それに合わせてUSJのアトラクションも着実に進化していたように感じました。
来年4月、USJは開園10周年を迎えます。次の10年に向かってどのようなアトラクションを繰り広げていくのか、そして、自分自身の見る目と立場はどう変わっているのか、いろいろと不安だったり楽しみだったりしているのです。(2010/12/9)
12番目のオブジェ(劇団風の子北海道「十二の月の物語」感想)
ピッコロ舞台技術学校に行っていて良いことの一つが、普段自分からはとても見ないようなジャンルの作品を鑑賞する機会があること。しばらく前の話になりますが、子ども向けの演劇を見てきました。満員のピッコロシアター大ホール。「普段からこれぐらい入ればうれしいんですけどね…」と隣に座ったピッコロ劇団の劇団員さんと話しながら、舞台が始まりました。
舞台上には、六角形のステージと周りに11本のオブジェが。このオブジェは円筒形のもので、上から何本ものロープが垂れ下がっており、底の円形部分を動かすことによって、ロープがピンと張ったり絡まったりするという優れ物。森の木をイメージしています。(文章にするのは難しいので、写真をご参考に。ただ、全体像は写っていないので分かりにくい…。)ということで美術は立派なのですが、明かりは常に地明かりで、音響も全て生演奏なため、いわゆるPAはありません。さらに、袖も使わずに、登場人物たちは奥の方で後ろを向いて着替えることによって、さまざまな「役」に変身します。おそらく、十分な設備のない学校や公民館の講堂でも公演できることを前提に作られているのでしょう。
とはいえ、お話が「十二の月」というだけにさまざまな季節や風景を表現する必要があるのですが、それを布や服装や演技で見事に表現。さらに一人何役もこなしていても、ちゃんとその場面その場面で役になり切るという役者さんの表現力もなかなかのもの。演劇の主体はあくまでも役者であり、美術・照明・音響というスタッフワークはそれを生かすためのもの。単純だからこそ、演劇の原点が垣間見える気がしました。
ところで、唯一象徴的なセットである11本のオブジェ。「十二の月の物語」なのに11本しかないのが気になっていたのですが、お話の中で直接的に触れられることはありませんでした。後から考えてみると、中央にあった六角形のステージが12番目のオブジェなんだろうとおもいますが(「昔ここには木があった〜」みたいな歌もあったので)、あえて一つ減らしているところに、無限の想像力が引きだされる気がします。こういう手法も素敵だなとちょっと思ったのです。(2010/12/11)
確かにそこにある不思議で優しい世界
(創作集団からここたち、「頭痛肩こり樋口一葉」感想1)
ピッコロ演劇学校の先輩方が作った劇団の一つがこの「からここたち、」。いつも公演のお誘いをいただいていたのですが、何故かこれまで他の用事とバッティングしてしまい、行けていませんでした。今回は日曜日の午後からは用事がないということで、満を持して観劇させていただきました。
原作は井上ひさしということで、私は話を知らなかったのですが、やはりしっかりした筋書きでした。ただ、単に井上ひさしの世界を再現したのではなく、それを十分に自分たちのものにしていていました。明治初期の東京という舞台でありつつも、「からここたち、」ならではの世界がそこには確かにあったのです。
特に、その上で大きな威力を発揮したのは「音楽」と「音響」。歌詞は井上ひさしの原作のようですが、転換時などに流れるアレンジが秀逸。和のテイストを取り入れながら、クラッシックでも洋楽でもない、場面場面に合った音楽となっていたのです。さらに、効果音や音楽の出され方が、左右、上下、手前奥の6台(?)のスピーカーを実に小気味よく使い分け、観客へしっくりと入りこんでくる音になっていました。そして、幽霊のシーンのリバーブも見事。開幕前にじろじろと舞台を確認していた際、センターにピンマイクが垂れ下がっているのを見て、「あれは録音のためにつかうのかな−」と思っていたのですが「ああこれだったんだな」と納得でした。「音響がすごい」という感想を抱くことは、私自身はあまりないのですが、今回はそれを真っ先に感じたのです。
もちろん、客席に向かって伸びる花道や転換明かりを兼ねたちょうちんを効果的に使った舞台セットや暖かくも美しい地明かりを作り上げた照明も、総じて高レベルなものでした。そして、それぞれのレベルは高いものの、逆に下手をするとバラバラになりかねないスタッフと役者とをまとめ上げた舞台監督の経験と力というのも感じずにはいられなかったのです。長年同じスタッフと役者が一体となって、一つの劇団として作品を作り上げていることの成果が、こうしてここに結実しているのかなとも思いました。そういう意味では、演劇学校と舞台技術学校を抱えているピッコロならではの良さを体現した劇団であるという気もします。
「からここたち、」、もっと早くから見ておくべきでした。そういう意味ではちょっとだけ悔しい思いも感じながら、家路に着いたのです。(2010/12/13)
この世界は温かい思いに満ちていて
(創作集団からここたち、「頭痛肩こり樋口一葉」感想2)
今回のお話、実は誰も幸せになっていないということに、後から気づきました。主人公の樋口一葉=夏子は家や女というしがらみの中で死んでゆき、母の多喜も世間体に縛られたまま娘の後を追い、花蛍は恨みを晴らすこともできず、こうや八重に至ってはお互いに喧嘩したまま死んでしまいます。唯一生き残った邦子も多額の借金に追われ、まさに重い荷物を背負って、思い出の詰まった家を出ていくわけです。だけれども、この舞台はどこか優しい雰囲気にあふれています。
それはおそらく、演出家の言葉を借りれば、この作品が「気づかぬ繋がりに支えられ、知られざる人の温かさに満ちていて」「見える世界が見えない世界に支えられていること」に気づかせてくれるからなのでしょう。そして、「見えない世界」というのは、単に霊界とかあの世とかだけではなくて、現実のこの世の中も示しているのかなと。自分には直接は見えないけれど、陰から自分のことを支えてくれている、応援してくれている人がいる。人は、そういう温かい思いに支えられて生きている。この世界は、温かい思いに満ちている。そういったことを思い起こさせてくれたからこそ、厳しい社会や人生を描きながらも、暖かい気分を持って帰れるのでしょう。
類が友を呼ぶのかどうか分かりませんが、私の友人には心を病んでいたり、家庭の問題を抱えていたりする人が多いです。そういった人の日記やブログを読むたび、なんとか支えてあげたり励ましてあげたりしたくなることも多いのですが、現実には適切な言葉が見つからなかったり、距離や時間や性別や年齢やその他様々な制約があって、それを伝えられないことが大半です。でも、たとえ伝えることができなくても、そういう思いを持ち続けることもまた、この世をちょっとだけ温かくすることなのかなと、この作品を見て小さく決意したのでした。(2010/12/15)
男性1名→主役。
ピッコロ舞台技術学校は軽音楽ライブ実習も終わり、次は1月中旬の歌謡ショー実習。ところが、美術コースだけはもうこの時期から卒業公演へまっしぐらとなります。プランを立て、道具帳を作り、道具を発注し、半分ぐらいは自分たちで作りということを勘案すると、この時期から始めても時間ぎりぎりなのです。今日は、初めて卒業公演の候補台本の原作を頂きました。当然、誰も読んでいない(講師の先生も斜め読みしかしていない)ので、何と美術コースの6名+先生+助手の方の8名でセリフの読み合わせとなったのです。先生曰く、「美術コースだけで読み合わせをしたのは記憶にない」とのことですから、かなりイレギュラーなよう。そして、今日の出席者の中で男性は私だけ…ということで、なんと主役のセリフを読むことになってしまいました。
もちろん美術コースのための読み合わせということなので、うまさや技術が要求されるわけではありませんし、むしろ世界観をとらえていくことが大切なわけですが、これがなかなか楽しい。特に、美術コースの1名と助手の方は役者経験の長い方で当然とても上手。掛け合いをやっていると、どんどん気分が乗っていってしまうのです。ほんのさわりのさわりだけなのですが、「役者というのも楽しいかも」とちょっとだけ思ってしまいました。
読み合わせしながらも、適当に気になった言葉やイメージをスケッチブックに書いていました。「地下18階」「錆」「単調」「小さな一つの社会」「配電盤」「トランプ」「お祭り」…白、灰色、黒、砂、スロープ、やおや、柵、ドア…台本を読んでいるとさまざまなイメージが膨らみ、実現してみたいアイデアが沸き起こってきます。大変ながらも楽しい時間が、また動きだしました。(2010/12/17)
難しい感想は別にして…
(吉本新喜劇「うそつきは恋のはじまり」感想)
日本の演劇の中で曲がりなりにも商業的に成功している劇団というのは「劇団四季」と「宝塚歌劇」ぐらいしかない。それぞれ商業的に成立するに足る何かがあるはずなのだから、真似するかどうかは別にして、その何かを虚心坦懐に探るべきだ…というのが私の昔からの主張なのですが、もうひとつ商業的に成り立っている演劇がありました。「吉本新喜劇」です。これは見ない訳にはいかないと行ってきました、なんばグランド花月。
私は事前に予約していったのですが、劇場に着いた時、当日席は売り切れで、立見席だけを売っていました。土曜の午後とはいえ、すごい人気です。グランド花月前には、いかにも観光ツアーで見に来たという団体さんも多数。四季でも空席が目立ち、宝塚は空席だらけの昨今、ちょっと考えられない状況ではあります。
前半に漫才やコント、漫談があり、休憩をはさんでいよいよ新喜劇。お話の筋は、独身貴族の男性(内場勝則)が上司の手前上、結婚していることにしないといけない状況に陥り、人材派遣会社に奥さんの代わりをしてくれる人を依頼する。そこで派遣されてきた女性(未知やすえ)にも色々と事情があり…というもの。若干楽屋落ち的な設定(内場勝則と未知やすえは実際の夫婦)ではありますが、そこに奇妙な引越し屋や管理人、隣の夫婦、新喜劇につきものの警察官などが絡んできて、45分間、全く飽きさせない構成になっていました。実は私の周囲には子どもたちの団体が座っていたのですが、漫才の時などはうるさかった彼ら・彼女らも新喜劇になると静かに見入っていたのです。
今回見ようと決意するまで知らなかったのですが、吉本新喜劇自体がテレビで流すことを前提に作られた芝居とのこと。基本は地明かりのみの照明、最小限のPA、機能的はあるものの様式的なセット、途中に暗転幕が下りる、(私の時は関係なかったですが)出演者もテレビ優先など、「テレビあっての新喜劇なんだろうなー」と思うところも。とはいえ、土曜日の昼間にお昼ご飯を食べながらテレビで見るのとはやはり違った臨場感もあって、これもまた演劇の一つの形なんだろうなと。関西の演劇シーンの奥深さを改めて実感しました。
とまあ、難しい感想はともかく、「楽しかったなあ」「おもろかったなあ」「未知やすえかわいかったなあ(?!)」という時間を過ごせたのです。(2010/12/19)
かわいそうというのではないのだけれど。
「精神病院って、実際に行ったことある?」
「…行ったことあるよ…昼間からずっとジャージで、お風呂も芋洗いのようで…かわいそうというか…かわいそうというのではないのだけれど…」
ほとんど同じ言葉を約20年前の大学時代、重度の肢体不自由児の学校を見学に行った時、ある女の子から聞いたのを突然思い出し、一瞬、当時のあの場所にいた自分に戻ったような気がしました。「ではない」とすれば何なのか、38歳になった今、ちょっと悩んでみる必要があるのかもしれません。(2010/12/21)
希望と挫折のない社会での演劇とは
(ピッコロシアター文化セミナー「笈田ヨシさんに聞く「漂流俳優」」感想)
昨日、パリを拠点に世界中で活躍されている俳優・演出家である笈田ヨシさんを迎えてのピッコロシアター文化セミナーを聞いてきました。あまり日本では知られていない俳優さんなのですが、ヨーロッパで日本人俳優というと真っ先に彼の名前が挙がるそうです。私自身も、ピッコロに通い出した去年、ピーター・ブルック(シェイクスピア作品の演出で有名な世界的演出家)との関係で名前を聞いたのが初めてでした。そんな笈田氏、実は神戸市のご出身で、甲南中学・高校に通っていたのだそう。まさに地元の方ということで、親近感を感じます。
世界を舞台に活躍されている方ということで興味深い話がいろいろとあったのですが、一番気になったのが「(社会に)抵抗があるときの芝居は面白い。抵抗がない時代の芝居というのは面白くない」「今の若い人には希望と挫折がない」という言葉。昔は、大東亜共栄圏にしても、自由主義にしても、マルキシズムにしても、目標とすべき社会像とそこにたどり着けない葛藤があり、それが芝居にエネルギーを与えていた。しかし、いまはそういった状況(希望と挫折)が無くなり、芝居は単に受けたい、自分が目立ちたい、他人を喜ばせたいというだけのものになり、全くエネルギーが感じられなくなってしまった。なるほどなあと。特にヨーロッパでは東欧における社会主義の崩壊に演劇や映画が果たした影響というのは無視できないわけですが(チェコスロバキア民主化後の大統領であるハヴェル氏はなんと劇作家)、そのあたりの事情も踏まえての認識なのでしょう。
今の日本における希望と挫折とは何なのか。「脱亜入欧」とか「追いつけ追い越せ」とか「マイホームパパ」のような、目指すべき社会像とその共通認識は、ここに来て完全に失われてしまった気がします。先日「リストラなう!」を読んでいても思ったのですが、現状に不満がないわけではないけど、目指すべき将来もなく、奇妙な明るさだけが目立つのが今日の日本の現状です。自分自身も正直、目指すべき希望も挫折もない日々を過ごしている気がします。この状況を打破するのが演劇なのか、あるいは演劇はこの状況の中で枯れていってしまうのか、そんなことも考えさせられたセミナーでした。(2010/12/23)
役者不足?(ザ・ニュースペーパー「2010年を笑え!」感想)
なんとなく年末恒例となりつつあるザ・ニュースペーパーin新神戸オリエンタル。23日のチケットが売り切れていたため、昨日、午後からお休みをいただいて行ってきました。さすがに平日なので、ぼちぼち空席はありました。東京ではすぐに売り切れるそうで、やはり地方都市ならではのアドバンテージではあります。
ステージでは、独特の芸で2010年が切り取られていきます。思えば今年もいろんなことがありました。エコポイントにエコカー減税、普天間問題と鳩山辞任、小沢元幹事長強制起訴、尖閣諸島と神戸ゆかりのsengoku38、メドベージェフ大統領の北方領土訪問、消えた老人問題、チリでの炭鉱事故と脱出作戦、海老蔵事件、「早く座れよ」発言…改めて振り返ってみると、結構いろんなことがあった1年間ではありました。
ただ…見ていて感じたのですが…どうも今年は切り口が甘いというか、いまいち役者が乗りきっていないというか、小粒のお話になっているように感じたのです。で、色々と考えてみると、去年は政権交代の年で、事業仕分けも1年目、首相も独特のキャラで、現実の方が「コント以上にコント」な状況も数多くありました。ところが今年は、去年までの「もしかすると社会が変わるかも」という期待が崩壊してしまった1年間でもあったのです。そして、主要な登場人物(政治家)のアクが弱い。ザ・ニュースペーパーの舞台上でも、強烈な個性を放っていたのは、小泉純一郎や小沢一郎、鳩山由紀夫など、正直ひと世代前の政治家ばかり。現役の政治家で彼らに対抗できるキャラの持ち主は、せいぜい石破茂ぐらいでしょうか。コントの題材となる現実の政治の方が面白くなくなってしまったのではないかという笑えない現実を、ちょっとだけ危惧してしまったのです。
来年は、激動の一年になるのか、少しずつでも改善の方向に向かうのか、何とも言えないこのもやもやした状況が続くのか、1年後のザ・ニュースペーパーを楽しみに、静かに見守りたく思っているのです。(2010/12/25)
もしドラ その1
昨日の午後、何の疑いもなく「今年最後の観劇〜」と勇んで、西宮北口にある芸術文化センターに向かったのです。今津線が高架になってちょっと導線が変わった駅に降り立ち、改札口を出てみたところ何だか雰囲気が違う…。どうも嫌な予感がする…。もう一度手帳を見てみると、なんと土曜日と日曜日の勘違い。公演があったのは土曜日の午後3時からで、今日は違う催し物が開かれていたのです。2日公演だったら土日、という先入観が強かったのかもしれませんが、ここに来るまで全く疑っていませんでした。私の記憶が確かならば、日程関係でここまで完全に間違ってしまったのはおそらく初めてです。
昨日の午後3時ごろは家でだらだらとしていた時間なので、もしもドラえもんのタイムマシンがあったら戻りたいところなのですが、さすがにそんなものはありません。今回のピッコロ劇団「さらっていってよピーターパン」は夏公演の時から評判が良く、舞台転換などバックステージ関係のお話も学校で多少聞いており、是非見たかっただけに本当に残念でした。
先日一覧表にまとめてみましたが、この1年で30本程度のお芝居やショーを見ているようです。確かに数を見ることによって、舞台技術関係はもとより演技に関しても分かってきたことがいろいろあるのですが、逆に一つ一つの芝居を見ることにかける意気込みというか、黙阿弥オペラでいうところの「日々の生活を切り詰めてでも、年に1度の芝居見物を楽しみにしている御見物衆」のような真剣さが欠けてきている気もします。たとえ、1年間に何十本の演劇を見ようと、それぞれ全てがもう二度と出会えない、一期一会のかけがえのない出会い。お芝居を見に行くことにワクワクした初心に少しだけ戻って、また数多くの舞台と出会っていきたいなと小さく決意した、西宮北口の日曜日の午後でありました。(2010/12/27)
もしドラ その2
「あなたの夢はどこにありますか?選択してください」
台北花博で最も人気のあるパビリオン・夢想館では一人ひとりにRFID(いわゆるICタグ)機能の付いた腕輪が渡されるのですが、それをもらう際に、一人ひとり自分の「夢」を登録する必要があるのです。確か、家族・愛情・健康・仕事・智恵・感情の中から選ぶのでしたが、ぱっとこの質問が出てきて、時間的にはほんの一瞬だったと思うのですが、割と真剣に考えてしまったんですよね。自分の今の夢って何なんだろうなと。
今の家族である両親は大切だけども夢ではないし、もう一度新しい家庭を作る気も正直ないし、完全な健康ではないものの日常生活にはさほど不自由していないし、仕事はそれなりに楽しんでるけど出世する気もないし、いまさら知性を求めても仕方ないし…。しばし悩んだ挙句、演劇に携わっている以上感性が大切ということで、「感情」としておきました。
私自身もそうなのですが、どうも社会全体にも夢が無くなってきたことを、最近感じています。以前の日記で、「『流れ星が出ている間にお願いすると夢がかなう』と言うが、滅多に現れず、すぐに消えてしまう流れ星が出ている間にお願いできる、シンプルで確固たる夢を常に持ち続けている人は、きっとその夢をかなえることができる」という言葉を書きましたが、そういうシンプルで確固たる夢が抱きにくい社会状況になってきている気がします。もし神龍が出てきて「何か一つ願いをかなえてやる」といわれても、色々とうだうだ考えているうちに、横から「ギャルのパンティおくれーっ!」といわれてしまいそうです。
ただ、上海万博の中国と台北花博の台湾を比較しても思いますが、未来の社会に発展が望めず、確固たる宗教的背景もないこの日本において、単純な夢や希望や大志を抱き、明確なゴールを見出すことはもはや不可能なのかもしれません。そんな行く先の見えない状況のなかにあっても、小さくともきらりと光る素敵なことや楽しいことを道端で一つ一つ見つけながら、何とか生きていく。もしかすると、そういう生き方への覚悟と決意と、そうやって生きていくことに対する真摯さが求められているのかもしれないなと、最近思っています。
integrity : the quality of being honest and strong about what you believe to be right(真摯さ:自分が正しいと信じたことに対する正直さと強さという特性)
今年も1年間、いろいろとありがとうございました。来る2011年も、よろしくお願いいたします。(2010/12/29)
12/29〜1/2は台湾年越し旅行のため、12/31の2日に1回日記はお休みです。
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