第二の謎

なぜ、この地に作られたのか?


 いざというとき、首都機能が移転できる街を作る....いま考えるとちょっと現実味のない話だが、冷戦下の60年代・70年代には緊急かつ重大な問題であった。
 どこに作るか...それには様々な条件があった。まず第一に、東京からある程度は近いこと。北海道や九州などに作ってしまえば、確かに安全かもしれない。しかし、有事の際無事に政府が移転することもまた難しくなる。現実問題としては首都圏の近く、あるいは周辺部に限られてくる。さらに、災害が少ないことや有形無形の力によって守られているところ、地元住民が純朴で疑い深くないこと、などたくさんの条件があった。その中で選ばれたのが茨城県南部、筑波山の麓の筑波・稲敷台地である。

 この地は数々の不思議な力で守られている。まず、北には霊峰・筑波山がある。筑波山は男体山と女体山の二つの峰を持っている山である。遠くから見て高く見える方を男体山としたそうだが、実際のところは女体山の方が高い。その影響か、筑波では女性が見かけよりも強い、という弊害も生まれてきてしまっている。ともあれ、筑波山は言うまでもなく筑波の守り神である。
 そして、南方の土浦・阿見には自衛隊の基地がある。特に阿見は、英語で陸軍を表す「アーミー」が地名の由来と言われるほどの日本有数の軍事の街である。また、阿見には「ト○ザ○す」というアメリカ資本の大規模なおもちゃ屋があるが、これも表の顔はおもちゃ屋だが、その倉庫には数多くの銃器や弾薬が隠されているといううわさもある。開店当初はなぜこんなへんぴな場所にあんな大規模な店ができたのか不思議であったが、こう考えれば納得できるだろう。(この話は、『こばんざめ新聞』の情報による。)
 西方は何もないように見えるが、実は平将門ゆかりの地である。平将門と言えば、首塚の例を持ち出すまでもなく、その怨念には定評がある。ただ、なにしろ彼が死んでからかなりの時代がたっていため、その怨念の強さも江戸時代ほどではなくなってしまっていた。そこで、その怨念を増幅するべく、一つの建物が建造された。それが、石下町の「豊田城」である。どうみたって街に不釣り合いな、時代考証など全く無視した、緑色の屋根の天守閣を持つ「豊田城」、なぜ町の年間予算の約半分という巨額を投じてあんなに意味のないものを作ったのか不思議であったが、こう考えれば納得できるだろう。
 ただ、「豊田城」のせいか、その怨念が増幅されすぎてしまい、筑波ではいろいろと怪現象が起きてしまっている(後述)。また、将門の怨念か、自殺や交通事故も後を絶たない。そのため、今になって怨念を鎮めるためあわてて、牛久に日本最大の大仏を建設するという始末になった。筑波は計画された都市ではあるが、しばしばこのように計画が裏目にでることがある。
 残った東方は、実は筑波のウィークポイントである。桜川という川があるぐらいで何もないのである。「さ○・あ○お」というショッピングセンターを作ったりして人々の誘致を狙っているものの、いっこうに人口は増えず、畑のど真ん中にショッピングセンターがぽつんと建っているという変な光景は当分変わりそうにない。ただ、筑波の東方には山を崩して採石している場所があり、ここに米軍をつれてきて射撃訓練に使ってもらおうという計画も持ち上がってはいる。そうすれば、沖縄の人たちは県道越えの射撃演習に悩むことなく、米軍は演習する場所が見つかり、採石業者はダイナマイトを仕掛ける必要がなくなり、筑波の東方の守りも完璧になる。一石四鳥のプランである。
 このように筑波地区は有形・無形の力に守られている。首都機能代行都市を作る場所としては、非常に適していたのである。


 

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これはフィクションです。おそらくフィクションだと思うのですが...。
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