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過去の「ほぼ演劇日記」 保管庫(2013年1月〜3月)


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2013年、新年明けましておめでとうございます!

今年も素敵な年にしましょう。本年もよろしくお願いします。

2013.1 いそべさとし


日記部分のタイトルを「ほぼ演劇日記」とします
 新年明けましておめでとうございます。昔に比べるとスーパーだのデパートだのは1月1日から開いているし、コンビニも年中無休だしで、お正月気分はかなり薄れてきているような気がしますが、ともあれ年賀状だのあけおめメール&書き込みだので、それなりに「特別な日」の感じはあるなあと改めて感じています。個人的には3年ぶりの日本での年越しでした。(まあ、台湾の時はホテルのテレビで最後まで紅白を見ていましたし、2日には日本に戻ってきていましたが…。)
 さて、昨年3月ごろまでは「2日に1回日記」として、2日に1回はそこそこに長めの文章を掲載していたところですが、4月に仕事が変わったことにより余裕がなくなった&仕事柄書けることがより限定されてしまったということで、年の後半からはほぼ完全に観劇記録化してしまいました。観劇記録だけでも遅れがちだったのですが、書いてまとめておかないとすぐに忘れてしまうというのもあり、その時の気分だけでも書いておけば思いだす際の縁になるため、時には頑張って書きすすめたというのもあります。
 今年もあまり状況は大きく変わらないと思います。となると、「2日に1回日記」のままでは看板倒れも著しいので、「ほぼ演劇日記」と改名(?)することにしました。最初は「ほぼ観劇日記=ほぼ観としようかな」と思っていたのですが、Googleで調べたところ既に「ほぼ観劇日記」というタイトルのブログを付けている方がおられるということもあり、「演劇」としました。考えてみると、日々の生活や仕事というのもそれぞれが与えられた役割やら期待される振る舞いやらを演じている一種の演劇であり、それを分厚いフィルターを通して書きしるすという点では、日記の内容もまた「ほぼ演劇」なのかもしれません。
 ということで、「ほぼ演劇日記」も含め、2013年もよろしくお願いいたします!(2013/1/1)

生き地獄。からの、本当のあたし。
(小人中毒「よる」感想)

 今年の初観劇は変り行く街・あべの橋での二人芝居。去年のピッコロ演劇学校本科生2名が出演し、今年の本科生が演出し、スタッフにはピッコロ演劇学校・舞台技術学校の関係者たくさんと言ったお芝居でした。いきおい観客もピッコロ関係者が多かった気がするのですが、正直、ピッコロ関係者だけで見るにはかなりもったいないほどよく出来ていたお芝居であった思います。
 作品はオリジナルの「13番の夜」と、蓬莱竜太さんの富士見町アパートメント「魔女の夜」。前半は軽いノリで、時には軽重をつけつつも、全体としては軽く楽しめる作品。演じる方も楽しんでやっているのが伝わってきました。そして、まさに本編とでも言うべき後半の「魔女の夜」。売れっ子女優・真島友紀とその辣腕マネージャー・進藤さゆりが、互いに抱えた葛藤をぶつけ合う、かなり重い会話劇。正直、攻守が入れ替わる場面も多く、感情も様々に入り乱れ、更に見ている側には謎解き的な様相もあるため、かなり難しいお芝居だと思います。そして、さすがというか、兎桃さんと山本瑛子さんはこれを見事に演じ切られました。ただ、おそらく賛否両論なのは、この作品、昼の部と夜の部でキャスト入れ替え制だったのです。そのあたりで、脚本に対する読み方は深まっているのかもしれませんが、作品としての完成度には若干の差が産まれてしまったかなと。それは多少残念だったのですが、逆にいえばそこが「完全見切り発車公演」と銘打ったところかもしれませんし、それでもちゃんと見ることができるお芝居だったのは言うまでもありません。(ちなみに、昼→夜とみたため、若干夜の方にダメを出したくなっています。まあ、一度見たから逆に演技が気になってしまったという側面は間違いなくありそうですが。)
 この二人、いつまで関西にいるのか分かりませんが、もっともっと多くの方に見てほしいし、もっともっと多くの方に見てもらえる舞台に立ってほしいなあと改めて感じています。正直、ピッコロ関係者だけではもったいない。「火曜日のゲキジョウ」があったら、30×30ぐらいに出させてもらって、大阪小劇場界に鮮烈デビューしてほしかったなあとか。いまだったら、LINX'Sぐらいなのかな。
 ちなみにこの作品のアンケートで「あなたはこの作品の終わりがハッピーエンドだと思いますか、バッドエンドだと思いますか」というような項目がありました。個人的には、やはり一度「生き地獄」を体験してみないと次は来ないのではないかなと。すでに冷静に電話に出た姿を見ても、おそらく今までと何も変わらず、でもどこか違った二人の関係はこれからも続いていって、そのなかでそれぞれが「本当のあたし」を見つけていくのではないかなとか、そんなことも感じたのです。(2013/1/7)

今はゆっくりと、はなしているのかな
(彗星マジック「アルバート、はなして」感想)

 大好きな劇団の一つ、彗星マジックの最新作。バンコクからの帰国便が朝到着だったため、千秋楽に間に合いました。気温差30度の中、ヒートテックで完全防寒して応典院へ。千秋楽ということもあって、超満員。ピッコロの友人に会ったり、関西小劇場界の有名人を見かけたりと、彗星マジックの人気度アップも感じられました。
 作品は、アインシュタインの一生を叩き台に、時の流れやいろんな人や世界との繋がりを、彗星マジック流に表現。1年にわたって演じられた代表作ともいうべき「定点風景」とは全く違う世界だけど、でも衣装や音楽の入れ方、細かいギャグや話の運び方には相通ずる部分も沢山たくさんあって、それが劇団、カンパニーの色であり力なのかもしれません。有名人の伝記的作品でもあるので、話の流れには多少ばらばら感も。いくつかの話が並行して走るので一度見ただけでは分かりにくいかなと。ただそれぞれは心を打つストーリーだし、それぞれを(人の人生と重ね合わせて)重層的に見せたいという作・演出の意図があるのかもしれません。
 役者さんはそれぞれ輝いていましたが、特筆すべきは木下朋子さん。アルバートの幼少期を演じられましたが、定点風景のベロニカとは全く違う雰囲気で、でも自分の持ち味はしっかり表現された演技でした。これまではどちらかといえば自分の素(というかベロニカ風の雰囲気)を前面に出された演技や役が多かった気がするのですが(宇宙人にせよ落ちこぼれトナカイにせよ)、今回は全く違う感じで、それもそれで素敵な女優さんだな(になったな)と。さらに、匿名劇壇の東千紗都さんが明るいだけではない、身体と表情とで演技をされていて、多少粗削りな部分はあるものの、印象的。米山真理さん、西出奈々さんは、それぞれ主役でも全く演じられる演技力と華を持った方で今回の使い方は多少もったいない気もしましたが、この辺りの贅沢さもまた彗星マジックの実力なのかもしれません。男性陣もそれぞれに印象的だったのですが、やはり勝山さんは女性の使い方が絶妙だなといつも思います。
 ちなみに今回の作品は「イマジナリーコンパニオン(想像上の友達)」の話ともいえます。幼児などが想像上の友達を自分の心の中で作り上げて、その友達と会話したり遊んだりしている状況で、親は心配に思うようですがそれほど珍しくもない発達過程のようです。で、実は私自身そういう経験があるのですが、残念ながら(?)正常の範囲内だったようで、小学校に上がるにつれて彼女はいつの間にか消えていってしまいました。ただ、なんとなくそのやり取りの温かい感じだけは心のどこかに残っていて、またいつの日か出会って、ゆっくり語ってみたいなとかも思っています。アルバートも天国でダンテとゆっくり3や4や時間や人々のことについて語っているのかな。個人的にはそんなことも感じた作品でした。(2013/1/19)

10の若干ブラックテイストなニコニコ短編集
(劇団ウンウンウニウム「事件は会議室で起きてるんじゃな!」感想)

 彗星マジックの後は、ピッコロ友人が出演する劇団ウンウンウニウムの公演を見に十三へ。夜行便で帰国後の観劇だったので面白くなかったら寝るよと宣言しており、実は開演前の待ち時間にはちょっと寝てしまっていたのですが(カフェスロー大阪の椅子は寝やすいものは寝やすいのです)、始まってからは全く眠さを感じることもなく、一気に見てしまいました。
 基本的には10の短編コント集ではあるものの、アイデア豊富で全く飽きさせず。役者さん達の(若干無駄に)レベルの高い演技で、上質の喜劇が楽しめました。演技・アイデアを通じて全体的にレベルが高いと思ったのは「何がおきているんだ(Youtubeにも上がっているので自信作なのでしょう)」「5000円札(ちゃんと「舞台上でマジック」という伏線を踏まえている上に、ディスコミュニケーションが面白い)」「Kコンシェル(時事ネタを効果的に使っている上に役者の演技が面白い)」。チラシにもなった「段ボール殺人事件」はかなり面白い着眼点で、テンポも良かったものの、特段のドンデン返しが無かったのが若干残念。もっとお互いの密室性(?)をつかった面白い展開があったのではないかなとか。それぞれ全く違う話でありながら、でもどこか同じテイストも感じられて、やはりそのあたりが14回も公演を続けてきている劇団なのかもしれません。
 役者さんは皆さんお上手で、そのレベルはおまけの即興芝居でも伺いしれました。個人的には、(直接よく知っている藤浪加奈さん、今井梢平(海人)さん除きで)石田竜生さんの場面場面に応じた演技と、長濱“ぴの”愛美さんのかわいいんだけどどこか小悪魔的な演技が気になりました。喜劇はストーリーの力を借りにくいからこそ、余計に役者の個性や力量が目立ってしまうような気もしますが、十分それにこたえられる作・演出と役者だなと改めて感じました。
 ちなみに次回作は「くそビッチ公演」だそうで、出演者募集中だとか。もともとメンバーの多い劇団ではありますが、新たなメンバーを加えての次回作もまた楽しみにしているのです。(2013/1/20)

それぞれの震災 それぞれの舞台
(歌劇★ビジュー「DREAMS BOT 1.17リフレイン」感想)

 金曜日に突然チケットをもらって行ってまいりました。初歌劇★ビジュー。この劇団のお名前は仕事関係で結構聞いたことがあるのですが、だからこそ正直足が向かない部分もありました。ということで、あまり期待せずに見たのですが、これが実に本格的でしっかりとした舞台。十分、見応えがありました。
 作品は、キャリアウーマンとして名をはせる姉とフリーターの妹の物語。いまは気丈で、時流に乗って生きる姉には、震災で愛する人を失ったという過去があった。それを18年前にタイムスリップして知る妹。ベタで分かりやすい震災のお話でありながら、ところどころに震災の現実とオーバーラップして、それが素直に心を打つのです。要所要所に組み込まれたダンスはレベルの高さもさることながら、入れ方が決して嫌味ではありません。とりわけ、厄災と大地を象徴するような友麻亜里さんのパフォーマンスは、あくまでも背景であり続けながら圧倒的な存在感がありました。
 役者さんはたった4人でいくつもの役を演じるのですが、早替えで全く違う人物になりきり、それを演じきる能力にも脱帽(役者さんのブログを拝見したところ、早替えのバックヤードはかなり戦場なようですが)。またちょっとマニアックな見方では、LED照明の特性を生かした照明プラン(少しずつ色が変わるとか、パチパチっと点滅させるとか)が印象的だったり。歌、演技、踊り、舞台、照明などのバランスがよく、さすが五度目の再々々演技だなと感心するところも多々ありました。宝塚の大舞台とはまた違った、これはこれで素敵な歌劇の世界。神戸北野というロケーション、1時間半弱という適度なランタイム、素晴らしい演技と踊りと歌、そしてかわいい娘役さん。これからもちょっと通ってしまうかもしれません。
 開演前、阪神・淡路大震災からの復興のビデオがちゃんと見せるでもなくなんとなく流れていました。震災の当時を思い起こさせる効果なのかも知れませんが、個人的には「人と自然、人と人」とか「人間サイズのまちづくり」とか、就職当時に聞いた懐かしいフレーズが多々あったり。そういえば震災がなければ私がこの場にいなかった可能性が高く、この作品も生まれなかった可能性が高いわけで、あのような災害は決して二度と起こしてはならないのだけど、起こってしまった震災が生んだものもまたいろいろとあるのだなあとも感じた、18年目の夜でした。(2013/1/29)

愛される作品、愛される劇場、愛される登場人物たち
(ノンバーバルパフォーマンス「ギア-GEAR-」感想)

 なぜか先週は全くやる気の起こらない日々。仕事をしてもうまくいかないことばかりで、アフターファイブには特にすることもなく、かといって積極的に誰かを飲みに誘うほどの積極性も、一人で飲みに行くほどの思い切りもなく。なんとなくうだうだが続いたので、この局面を打開しようと、楽しさ感動完全保障の「ギア」を見に行くことにしました。ある意味、身近な場所でロングランをやっているからこその活用方法かもしれません。加えて、ver.2.0がもう終わりなので、最後に見ておきたいというのもありました。
 金曜日の晩の回でしたが、ほぼ満員。一時休止前とはいえ、昔では考えられないです。そして見に来ている人の言葉を聞いていてもリピーターさんが相当多い模様。会場内の雰囲気もどこか暖かく、そして前向きです。楽しい前説にもみな敏感に反応して、会場全体がほぼ知り合いといった小劇場演劇とはちょっと違った一体感がありました。演技もパフォーマンスも堂々としたもの。今年4月1日にロングランが始まった時は、最初のロボロイドの動きに明らかに個人差があった(マイムの方が上手でほかのセクションの方はいまいちとか)のですが、全くそんなことは感じさせず。パフォーマンスの切り替えも見事で、このあたりがロングランのすごさなのかなと。
 3回目でしたが、新しい発見も沢山。特に、音楽の使い方や展開が綺麗なんだなとか。最後のドールのシーンの音楽がラジオから流れていたりするんですね。ドールの動きと見事に呼応したピアノは「ピアノ演奏:兵頭祐香」だったりとか。もちろん、前回は自分が舞台に上がったマジックのシーン(空飛ぶラジオ)もじっくりと見ましたが、やはりネタは良く分かりませんでした。ジャグリングは技がすごいだけでなくて幻想的でいいなとか。最初は最初でびっくりするし、何度行っても楽しめるんだなと。
 去年の4月1日に行ったときに、正直、この作品がここまで続くとは思っていませんでした。もちろんいろいろと大変な局面もあったようですし、いろいろと工夫や努力をしながらここまでこぎつけたのだろうなと思います。この愛される作品、愛される劇場、愛される登場人物たちをいつまでも大切にしていきたい。それが京都のポテンシャルであり、関西のポテンシャルなのかなと。そんなことも感じながら、雪の河原町を後にしました。
 春からの新しいver.3.0もとても楽しみなのです。(2013/2/15)

夢と現実と東京とリンクスと
(LINX'S「LINX'S NON STOP TO TOKYO」感想)

 毎回、印象的な劇団を集めるLINX'S。今回は私自身は全く知らない東京の4劇団ということで、もともとあまり乗り気ではなかったのですが、プロデューサーの石田1967さんの眼力を信じて行ってみました。大阪は弁天町の世界館。前に一度来たことがある気がします。
 それぞれに印象的な舞台でしたので、見た順でご紹介。

ぬいぐるみハンター「ポテサラ パニック ピクニック パーティー」 個人的には雰囲気に乗りきれず、60分は多少長かったなと。ただ、決してポップさだけではない、しっかりと訴えたいものも確かにあって、大学生たちが描く「夢」とそれを押しつぶしていく「現実」との間で、一種どす黒い怨念なり葛藤が見え隠れしていた気もしました。何となく、「東京ペンギン」を思い出したのは、「ゆとり世代」の若者たちについ感じてしまうやり場のない焦燥感が共通しているからなのかもしれません。

虚飾集団廻天百眼「夢屋 地獄変」 アングラというかゴスロリというか。客席にはコンニャクだの血しぶきだのいろいろ飛んできて、全身タイツの女の子やら鞭を持ったお兄ちゃんやらが出てきたり。私自身、これまでいろいろと見てきてはいる方だと思いますが、その中でもかなり上位に入る混沌さでした。ただ、描いている世界はこれまた「悪夢を売りに来た少女」と「夢と引き換えに現実を埋めていく」といった話で、なかなか本格的。最後は混沌の中に終わり、奇妙な劇後感を残しました。

ニコルソンズ「泥島オズ子物語」 「夢のあった時代」バブル絶好期の80年台後半から90年台後半のヒット曲に合わせて送る、超売れっ子少女漫画家と彼女を取り巻く人々の物語。基本的にはパロディなりコメディタッチで、単に面白いことを面白くやっただけかもしれません。ただ、バブルという時代はそれなりに「夢」のあった時代。現代の些細な「現実」をツイートする登場人物たちに対して、「そんなことほっときゃええやろ」と言いながら張り手をかましていく泥島オズ子に、いまの日本に失われつつあるあっけらかんとした強さも感じました。

梅棒「スタンス in Osaka」 確かにすごかったとは思います。あのレベルのパフォーマンスはそうそう見れるものではないし、石黒圭一郎さんのダンスにはうっとりさせられました(わかる人にはわかる)。ただ、この技術をもってすれば、たとえノンバーバルであったとしても、もっと高度な「物語」を演じることができるはず。(「ギア」のように。)パフォーマンスがあまりにも素晴らしいからこそ、ステレオタイプで分かりやす過ぎるストーリーと人物配置が正直もったいない気もしました。

 チラシや当日パンフを見てもいまいち分からなかったのですが、今回、何らかのテーマはあったのでしょうか?例えば「90年台ヒット曲」とか(笑)。
 おそらく正解ではないと思うのですが、自分が共通項として感じたのは「夢と現実」でした。昔々、私が高校生のころ、「夢+努力=現実!」とか言っていたラジオDJがいて、それはそれで当時も揶揄はされていたのですけど、でも少なくとも現実とは自分で勝ち取れるものであった。ただ、いまの時代、現実というのは自分が勝ち取るものではなく自分の目の前に立ちふさがるもので、夢や努力を吸い取るものになってしまっていないか。それは、ある意味時代の先頭を行っている東京でより顕著になっているのかもしれないなと。今回の素敵な作品たちを見て拍手喝さいを送るなかで、若干暗い、やりきれない何かも感じていたのです。
 いずれにせよ、さまざまな演劇の側面を分かりやすく、楽しく、気軽に見せてくれるLINX'S。石田1967さんが実社会のほうで昇進されたということでしばらく休養とのことですが、復活の日が今から楽しみなのです。(2013/2/19)

分かるべきでない、あたりまえでない世界。
(ピッコロ劇団「泡−流れつくガレキに語りかけたこと」感想)

 ピッコロ劇団代表の岩松了氏の完全新作。難解で分かりにくい話かなと思っていたのですが、案の定、そんな感じでした。なんだか面白くないという話も聞きましたし、終演後のお客さんの反応も決してよろしくはなかった気がします。ツイッターでも、なんだか難しかった的な感想が多かったですし。
 私自身もそんな感想を抱いてはいたのですが、その後考えてみると、人々を海上に追放してしまう海上生活者法だの、ただ見守って罪を着せられるだけのお仕事(灯台守)だの、「行政」という名の行政だの、放射能から身を守るための傘だの、大量のがれきが海上を漂っている状況だの、そんな異常な世界で起こる事柄は理解できなくて当然のような気もします。逆に言うと、そのどこかに「これはあるかも」と感じてしまうことのほうが恐ろしいのかもしれないなと。時代の寵児として扱っていた人を、些細なミスでどん底まで突き落とす非寛容な世界。為政者(行政)に対して、結果よりもむしろ動機のイノセントを求める人々。明確な目指す世界が良く分からないものの、手法の正しさには妙に熱心な反政府組織。そして、目に見えない放射能や放射線に、どこかおびえている人々。舞台上の人々は「あたりまえ」と思っているものの、ありそうになくて、あるべきでない、パラレルワールド。このどこか狂った世界を、自分がどこかで現代の日本を描いているように感じてしまっていること。そのことのほうが怖いのかなと。舞台と観客席を大きく区切る断層は、見た目よりも意外と小さいのかもしれません。
 そして、そんな世界を、放射能まみれのがれきまで全て飲みこんでしまう、演劇という営為。まるで刑場でつるされたかのような人形たちが並ぶ舞台裏と、そして、綺麗に再生されてやたら明るく輝いている家のセット。そこにいる明るい一家は、消えてしまったはずの、そして実在しないことが強く示唆されている、「鈴木さん」一家なのでしょうか。虚実を併せ持つ演劇という営為に対する作者の想い、多少我田引水的なところは感じつつも、ある意味演劇として演じられる中で納得させられるところもあったのです。
 ちなみに、今回も関西各地から様々な客演さんが出ておられました。特筆すべきはワダ家の面々、特にタエちゃん(今村彩夏さん)は大活躍でした。もちろん、ピッコロ劇団の方々も安定の演技で、とりわけ森万紀さん、岡田力さんは、失礼ながら(?)、実に当たり役であったと思います。このピッコロプロデュース公演も定例化しつつありますが、毎回毎回趣向が違って楽しい限り。来年は玉岡かおる「お家さん」ということで、兵庫県出身者作の兵庫県のお話。おそらく今回とは全く違う主題・趣向になるとは思うのですが、これはこれで、また大いに楽しみなのです。(2013/2/27)

僕の知らない世界、僕の知らない転び方
(音体パフォーマンス「君の知らない転び方」感想)

 一度こまばアゴラ劇場を見てみたいということから探し出したものの、いろいろと調べていくうちに本編の方がずっと楽しみになってしまったという公演です。主演(?)のホナガヨウコさんは、名前は知らなくてもおそらくどこかで見たことのあるダンスパフォーマー。その彼女が、若い女性音楽家と組んで作り出した「ふりつけられたえんげき」。なんとなく面白そうです。
 お話は、もともと高校で同級生だった若い女の子二人が、突然東京で出会って二人で暮らしだすようになり、同じ家にいるにも関わらずそれぞれが別々の生活を送っていて、言葉のやり取りはなぜか「文通」の形で行われるという、どこか不思議な距離感のあるお話。同居を解消するときも、嘆き悲しむでも喜ぶでもなく、それはそれとしてまた受け入れる。こんな世界をダンスと極端に少ないセリフと音楽(歌)とで表現していました。
 こう筋書きを書いてしまうとなんてことはないんですが、音と体とセリフと舞台美術と照明が作り出す、統一感のある世界は素晴らしかったです。とりわけ、ホナガヨウコさんのパフォーマンスはさすがで、体というものがここまで感情を表現できるのかというのはある意味驚きでした。
 一方で「転び方」などという意味深なタイトルをつけているにも関わらず、強い感情表現や男女の問題などドロドロとした世界があまりにもなく、ちょっとエリートっぽい雰囲気(アフタートークでは「ユートピア」と称されていたので、その方が適当かも)すらあって、それが鼻につく人もあるのかなと思ったり。ホナガさんが、あまりにも中性的な雰囲気を醸し出しているのもあるのかもしれませんが。ただ、リアルな人生ではなく、自分が理想と描く人生を表現するのも、またパフォーミングアーツの仕事かなとか。多少自分の時代とは違った、今の若い女性が理想と感じている世界感・人間関係が垣間見えるという意味でも、ある意味興味深かったです。
 ちなみに、アフタートークを聞いていて感じたのですが、「演劇」「ダンス」「音楽」の壁というのは、やっている人にとっては意外に境界意識や苦手意識があるんだなと。実は、自分自身がこの世界にある程度触れたのは、つくば市の市民劇団「無限つくばりあん」だったのですが、その主宰者がもともと山海塾だの渋さ知らズバンドだのの舞台監督をやり、自分自身は洋画家でもある安部田保彦氏で、そもそも「パフォーミングアーツは根は一緒だ」という考えの中でいろいろとやってきたため、ある意味、ほとんど境界意識がないのです。そういう意味では、自分は実にいいスタートを切ることができたのだなあと、改めて感じたりもしました。(2013/3/23)

上手い、下手と、そのあとにある何かと。
(文学座付属演劇研究所夜間部卒業公演「上野動物園再々々襲撃」感想)

 今年も知り合いのピッコロ演劇学校卒業生が文学座付属演劇研究所に通っていましたので、それにかこつけて見に行ってしまいました。
 平田オリザ脚本ということで、一見平凡に見えながらもなかなか難しい会話劇であったと思います。決して綺麗なだけではない郷愁(そもそも誰かのお葬式を再会のいいきっかけにしようとしているところ自体が示唆的)、決して思い通りにはならない人生。でもそこへ向けた一種の賛歌が心に残りました。
 文学座研究所本科生ということでみなさんそれなりに若く(とはいえ20代も後半の方も散見されてちょっとびっくりしましたが)、お話は中年以降の郷愁を描いている部分が非常に多いだけに、なかなか大変だったかなと。またセリフの多い役柄とそうでない役柄がわりと固定化していて、そのあたりでも卒業公演としてはいろいろとテンションの保ち方が大変だったかと思います。ただ、役者が輝いているかどうかというのは役の大小やセリフの多少ではないんですよね。それを一番感じたのは最後の「月の沙漠」の合唱で、あのシーンではメインの数人を除く他の男女全員が昭和30年台ごろの体操服姿で出てくるのですが、同じ服装だけにそれぞれの人の輝きが見事に見えてしまう。もちろんみんな本気でやっているんですが、でも何か見えてしまうものがあるんだなあと。去年のピッコロ本科卒公(ここが舞台だ!)でも多少感じましたが、今回もそれを感じました。
 ところで、来年度もまた、ピッコロ演劇学校の卒業生が文学座研究所に入ったそうです。もちろん入った後のセレクションも凄まじいわけですが、入るだけでも「演劇界の東大」ともいわれるほど。最終的にどうなるかは別にしても、ぜひこの最高の舞台で戦っていってほしいなあとも願っているのです。(2013/3/24)

5つの可能性をたどる旅(Rewrite感想1)
 「ほぼ演劇」ということで、今回は演劇とは全く関係ないゲームの感想を。Keyの2011年の新作Rewriteです。発売直後に初回限定版をわざわざ買っていたものの、なかなかする気になれず、コンピュータをリカバリーしたのを機に、ようやくやってみました。Keyはいわゆる美少女ゲームメーカーなのですが、AirやClannadが大ヒットし、アニメ化もされたということで18禁ではないゲームを出すようになりました。このRewriteも18禁ではありません(多少、それっぽい記述がないわけでもないのですけどね)。
 個人的には、この世界、「ニコニコ動画で『鳥の歌』という曲を知る」→「その同人アレンジ音楽ARIAを聞いて、他のBGMにも興味を持つ」→「この音楽が使われているゲームであるAirをやってみよう」という、多少変わった入り方をしたのですが、確かに今回のRewriteでも主題歌やBGMなどの音楽はすごく良かったです。今回はこれまでkeyで活躍してきた以外のの作曲家さんも参加されているようですが、あまりそれを感じさせない統一感と、それぞれの持ち味を生かした多彩さが、上手くマッチしていました。ここは外れがないですね。
 一方、作品(シナリオなど)の方の評価は多少…なのですが、自分の記憶と記録のために、一応各ルートの感想を順次書いておきます。
ちはやルート:「一人だけ違う制服を着ている転校生キャラ」はおそらく本筋とはあまり関係ないだろうと思い、一番最初にやりました。と思ったら、本筋どんぴしゃりの内容。ある意味、想定が外れました。お話自身はあまり乗りきれなかったんですよね。咲夜はBLとかには使えそうだなとか、そんな感じ。
小鳥ルート:ちょっとネットを調べてみたところ、どう見てもメインヒロインの小鳥が実は最初に攻略すべきとの声が多かったため、次はこちらに。どんどん崩れていく感じが、どこか共感できるところもありました(そっちか)。声優さんの演技がすごいと思っていたら、中の人の斎藤千和さんは「泣きの千和」と呼ばれているそうです。
ルチアルート:どうもちょっと雰囲気が違うと思っていたら、ライターさんがちがうようですね。KAZAMOでの初デートとか、教会でのアサヒハルカのシーンとか、ひまわり畑とか素敵なシーンはたくさんあるんだけど、個々のつながりがしっくりこない。clannadのことみルートみたいにもっと「ひまわり」で押し切ればよかったのになあ。
静流ルート:いかにもKey王道のかわいいけど強いよキャラなんですが、個人的にはちょっと苦手。ただ、ラストシーンのBGMの使い方には感動。途中で人が(自分で意識しないうちに)次々と消えていくシーンが印象的。消えた本人ではなく、残された生きていかざるを得ない人々の側にのみ苦悩が残るんだなとか。
朱美ルート:「会長」「聖女」の役割をこなしていかなくてはいけないことに対する苦悩とか決断の悩みとかがほとんど見られなかったのが正直残念。そういうお話かなと、多少期待していたんですけどね。二人で遠くへ旅立つラストシーンは賛否両論でしょうね。それだけで(社会的にも個人的にも)何かが解決するわけでないし。
 ということで、全体的に見て各攻略ルートについては若干辛口評価なのですが、Key作品ということで、やはりこのそれぞれの攻略ルートは、あくまでも全体の大きなお話の前段階。ということで、次回に続きます。(2013/3/26)

闇の世界から観客が可能性を受け止める(悪い芝居「キャッチャーインザ闇」感想)
 ちょっと演劇の感想に戻って、「悪い芝居(悪いけど、芝居させてください。の略だそうな)」の感想を。東京→北海道と行ってきた後だったので多少疲れていたものの、「必見」ということで行ってみました。実は悪い芝居は初めて。いつもの悪い芝居とはかなり違うよと聞いていましたが、いつもの悪い芝居を知らないので、そこのところはどうにも比較しようがない…(苦笑)。
 オープニングとエンディングが、闇で始まり闇で終わるのはタイトルから予想した通り。そして余りにもネタばれなのですが、ラストの主人公のワンワード(全部なのね…私の風景って)で270度ぐらい見方を変えざるを得なくなりました。これをずっと続いた赤子への違和感の解消と喜べるのか、筋を追ってきた観客に対する裏切りと感じてしまうのか。なかなか見る人と作品に対する好みを選ぶ作品だなあと。
 違和感は、独特な登場人物の命名方法にも。登場人物のそれぞれにどんな漢字を書くのか、終演後当日パンフをちゃんと見るまで全く分からず、そのため、名前が意味するところまでなかなか考えが至りませんでした。逆に言うと、当日パンフには訴えたいことの手がかりがたくさん(多少過剰に)書かれているので、これを事前に読んでおくのがもしかすると「悪い芝居」の流儀なのかもしれませんね。
 「キャッチャーインザ闇」というタイトルも、作者の意図は不明なものの、やはり「お客さんの想像力」に投げかけられているのかなとか。多少、作者が悪乗りしすぎてる感(岸田賞ノミネートの魔力?)も随所に感じられて、この点も楽しいと感じる人とそうでない人との差が明確に出てしまう気もいたしました。
 ちなみに、音楽はオリジナルだそうですが、世界観を見事に表現していました。一方、舞台美術はこの題材であればもっと幾何学的で無機質な方が良かった気が。照明は多少細かく変化させ過ぎ感も。衣裳は概して素敵でしたが、緑赤子の衣裳をどうとらえるかが、主題とも関連して賛否両論かと。
 ともあれ、いろいろと語れるということは、それだけ悪い芝居が作り出した「キャッチャーインザ闇」の世界がきちんと構築されていることの反証でもあり、やはり必見の密度の高い作品だなと思いました。あとは、相当な部分が観客の感受性だの想像力だのに任されているので、これに一生懸命ついて行くだけの体力がないとなかなかきついなあとか。最近、安直な芝居選びをしつつあるのですが、時にはこんな骨太の作品も見ていかないとと、改めて感じたところもあったのです。(2013/3/29)

Rewriteは母性(Rewrite感想2)
 ある天体上の知的生物が、資源が枯渇させ、さらに発展への意欲を失ってくると、その天体(地球、月)は「鍵(=篝(かがり))」という少女の姿をした存在を送り込んで、その文明をほぼ完全に破壊し、再進化を促す。これが、Rewriteの基本的な世界観かと思います。もちろん破壊させられる方はたまったもんではないので、なんとかそれを阻止しようとするわけです。このゲームの世界では「ガーディアン」と呼ばれる組織がそうで、破壊をもたらす「鍵」をなんとか確保し、殺してしまおうとします。一方、そのような滅びは星の意志であり、これを黙って受け入れる、あるいは滅びを促進すべきという考え方もあって、それは「ガイア主義」と呼ばれています。個別ルートのヒロインでは、ルチア・静流がガーディアン、ちはや・朱美がガイア(小鳥は独立系とでもいうべき存在)で、この対立関係が話の主軸となっています。
 ところが、個別ルート後のmoon、teraルートでは新たに、若干違った世界のあり方が描かれます。星のことなんて考えることはなく、星を傷つけて搾取しきってもいいから、他の星に移住するなどして、生き切っていくべきという考え方。「環境にやさしい」とか「地球にやさしく」なんていうのは欺瞞であり、人類は人類が生き残ることだけを精いっぱいやりきればよい、それが星にとっても「よい記憶」なのだという論理で、なかなか強烈ではありますが、確かに分からなくもありません。
 これを最も端的に表しているのがエンディングのCANOE(カヌー)という曲の歌詞で、ここで少年と少女たちは新しい世界に旅立つために、島の木を全て切り株に変えてしまい、最後にはただ一つ残された「母樹(ぼじゅ)」と呼ばれる命までを帆の柱にしてしまうのです。
 そして、この最後に手をかけられた「母樹」がイコール、このお話の最終盤に主人公によって殺された篝なのでしょう。たとえ、自らの体が削られ、自らを踏み台にしていかれても、それを恨む母はいない。むしろ、それを「よい記憶」として持ち続けるのです。「篝が望んだ最良の記憶…それは未来を切り開くための、力と意志ではなかったか。人類が諦めかけたもの。星を大事にしようとするあまり、人々が見失いかけていたもの。たとえ母なるこの星を食いつぶしても、なんとしても。僕たちは、広がっていかなければならないのだと。なぜなら。篝の面持ちが優しい。なぜなら、それは、我が子を見送る母親の顔で−。」「だとしても、星は私たちの暴挙を許すでしょう。我が子が母を踏みつけにして旅立つことを言祝ぐでしょう。それは決して悲しい記憶などではないのですから。」
 エンディングテーマのラストCGとして出てくる、今は生命が途絶えた月から地球を眺める篝の、溢れんばかりの笑顔。このRewriteというお話は、生きるための力と意志、そしてその源泉であり、それを永遠に支え続ける母性を訴えているのではないか。そんなことも感じたのです。(2013/3/30)



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